「常識」VS「常識がない」VS「非常識」

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ご機嫌麗しゅう。

わたしがオモシロ美人研究家Chacoなのだよ。

もちろん今日もスタバカなわたしである。
(スタバカ=スターバックスに「ばか」り通うスタバ「バカ」の略。
今年の流行語大賞の最有力候補では、と巷で囁かれているとかいないとか。)


わたしは最近、「カフェミスト」がお気に入りだ。
カフェミストは美味しいのだ。

「カフェミスト」と言ってもレジで注文した際

「カフェミストですね?それではお顔をお願いします。」

と言われるので、顔を突き出すと

「お待たせいたしました。カフェミスト失礼いたします。」

と言って、ミスト状のコーヒーを「シューッ」と霧吹きで吹きかけられて

「あ〜やっぱりグアテマラは肌が引き締まるのよね〜

飲むのもいいけど、やはりカフェインは肌から摂取の時代よ〜」

と、顔面からコーヒー臭を漂わせながらご満悦で
店を後にする…わけがない。

そんなわけがない。
顔面から漂うコーヒー臭を味わいながらブログを書く女がいたら…
できるかぎり距離を置きたいと思うのが人情というものだ。

というわけでわたしは「コーヒー」と「スチームミルク」をブレンドした
「カフェミスト」を「顔面」ではなく「
口腔」によって味わっているので安心してほしい。

ところで、みなは最近よく
「常識を打ち破れ!」と耳にしないだろうか。
(いつも前置きから全く脈絡のない話を始めるわたしは「ところで」という
接続詞の有り難みを感じている人
TOP10に必ずやランクインしていると自負している。)

「常識」というものにがんじがらめにされ、思考停止状態になり
自分の価値観で物事を捉えたり、判断できなくなってしまっているわたしたちに
警鐘を鳴らすために
あらゆるひとが発信している「メッセージ」である。

本当にその通りだと思うし
わたしも日々、常識を疑うようにしている。

そして、「お前はこんなブログを書いて阿呆なのか」

と言われた際には、自分の耳を疑うようにしているし
寝起きの鏡に写る自分の顔に直面した時には
その目を疑うようにしている。
思えば疑ってばかりの日々だ。


常識を打ち破るということは
「非常識になる」ということだ。
自分の信念に従うためであれば時に、世間では「常識」とされていることでも
それをかなぐり捨てることもいとわずにいたいものだ。

例えば、コーヒーを顔面より霧状で摂取したいと心の底から願うのであれば、
「コーヒーは口から飲むもの』という常識を打ち破り
たとえ「非常識」と思われようともミスト状のコーヒーを己の顔面で
受け止めてみればよいのである。

しかしながら、わたしは時に、自分の信念を貫くために「非常識」な人間になることを
試みることは
しても「常識がない」人間にはなりたくないと思っている。

上記は一見矛盾していると思われるかもしれない。辞書で調べてみても

非常識
[名・形動]
常識のないこと。常識を欠いていること。

また、そのさま。「―な言動」
出典:コトバンク(https://kotobank.jp/word/非常識-610057)

とあり、「非常識」=「常識がない」の方程式が成り立っているようだ。

しかしながら、わたしの辞書においては
「非常識」と「常識がない」は似て非なるものである。

例えば、電車に乗っている時
急に「ラーメン」が食べたくなったとしよう。

【常識的な行動】
「ラーメン食べたいな」@電車編
「じゃあ駅に着いたらあのラーメン屋に行こう」
→最寄駅前のラーメン屋でラーメン一杯を食べる
→帰宅

【常識のない行動】
「ラーメン食べたいな」@電車編
「あ、たまたまカップラーメンと
  熱湯の入った魔法瓶持ってるじゃん。
  わーいラーメン食べよう」

→お湯をラーメンに注ぐ。
 周囲は突如、カップラーメンと魔法瓶を
 取り出し、カップラーメンにお湯を
 注ぎだした人物を目の当たりにして
 騒然となる。
 「こいつおかしい」と言わんばかりの顔で
 車両を移動する人も。
 
→それでも当該の人物はそんな周囲のからの
 冷たい視線を気にすることなく
 座席に座りラーメンを持ち
 3分経過するのを今か今かと待っている。

「よし、3分経った♪いっただっきまーす!」
 当該の人物はラーメンをおもむろに
 食べ始める。

「あ〜寒い日のラーメンはおいしいなぁ」
 黙々とラーメンを食べる。
 その目にはもはやラーメンしか
 映っていない。

→麺をすすった時に
 汁が隣の若い女性の髪に飛び散って
 その女性より般若の形相でにらまれているが
 ラーメンに夢中なその人物は気がつかない。

→ラーメンを食べ終わり「あ〜美味しかった♪」
 と言い残し、さらにラーメンの空きカップも
 車内に残したうえで、目的の駅で
 降りて行ったのであった。


【非常識な行動】

「ラーメン食べたいな」@電車編

「駅の近くのラーメン屋で食べていこうかな。
 あ。そういや、おれ今たまたま
 カップラーメン持ってる。
 そしてなぜが熱湯の入った魔法瓶も持ってる。

→…いやいやいや。電車内だぞ?
 いくら今どうしてもラーメンを食べたいからって、電車内でラーメンを
 食べるなんて非常識にもほどがあるだろ!?

→…え、でも今すげえラーメンが食べたい。
 どうしよう。食べたい。え…食べる?食べてみる?
 おれ電車でラーメン食べてみちゃう?

→電車でラーメン食べたらどんな感じなんだろう…。
 絶対白い目で見られるし、めっちゃ恥ずかしいし、
 車掌さんに怒られるよな。痴漢よりタチ悪いかも。

→…よし。それでも食べてみよう。おれ、電車でラーメンを
 食べてみるんだ。周りに迷惑をかけることだってのは
 わかってる。でも、おれの中で
 「電車の中でラーメンを食べるとはどういうことなのか」
 を確かめずにはいられない自分がいる。よし。」

→男は、周りの目を気にし挙動不審になり
   ながらもラーメンに湯を入れ、今まで感じたことのないほどの
 長い3分間を過ごし、周りからの奇怪なものを見るかのような
 視線をバシバシ感じ、箸を持つ手は震えながらも麺を口に運ぶ。

→途中、汁が隣の女性に飛び跳ね、女性から般若の形相で
 睨まれながらも「あ、す、すみません!」と謝罪の言葉を伝え
 針のむしろの中「電車でラーメンを食べるとどうなるのか」を
 痛いほど体感する。

「うん…全く味がわからないな。ラーメンは電車じゃなくて
 家で食べたほうがいいや。こんな緊張感を強いられるんだ。
 想像以上だった。でも、意外に揺れていても汁物を食べるのには
 支障がないんだな。」

→そんな気づきを得て、目的の駅に着いた男は
 背中に冷たい視線をひしひしと感じつつ
 逃げるようにラーメンの空き容器を抱えて
 駅へと降り立ったのであった。

以上が私の考える
「常識」VS「常識がない」VS「非常識」である。

「常識がない」と「非常識」では
同じく車内でラーメンを食べるのであるが
「ラーメンを食べるに至る心の動き」
「ラーメンを食べている時の心の動き」
「ラーメンを食べ終わった時の心の動き」
それらが全て大きく異なっている。

常識がないとは、読んで字のごとく
「常識を持ち合わせていない」
というわけで、常識を打ち破るもなにもないのだ。
打ち破るための「常識」がないのである。
というわけで
ラーメン食べたい→食べる→おいしい
以上で完結である。
食欲が満たされただけである。

一方、「非常識」は「常識に非ず」ということで
常識「ではない」ということ。
すなわち、常識が「ない」ということではなく
常識というものを知っていて、それを
「自ら非んとする」ということである。

私がここで、「常識がない」行動やひとをどうこう言いたいわけではない。
わたしだって時に「常識がない」行動をとり「常識のない」ひとになっている
可能性は
大いにある。

世間でまかり通っている「常識」というものがあるのを承知の上で
リスクを冒してでも自分の価値観や信念のために
あえて自らその「常識」を打ち破ってみるという行為こそが
「自分と向き合い、自分を尊ぶこと」
につながると考えていて、それを伝えたかったのである。

すなわち
「常識を打ち破ったどーーー!!!」

という「結果」が大事なのではなく
世間の常識に自分がなぜか同調できない時に

「どうして違うと感じるの?」
「じゃあわたしはどうしたい?」
「ひとと違うことをするリスクを負ってまで本当にわたしはその常識を破りたい?」
「ひとからどう思われてもいいの?」
「そうか。そこまで強い思いがあるなら非常識になってみようか?」
「あぁめっちゃこわいよ!でも…やるんだ!」

これらの自問自答と、そののちのリスクを負っても本心に従おうと
「決意」すること
こそが、「自分と向き合い」、「自分を尊重すること」につながるのだ。
その「過程」こそが自分を知ることになり
飛躍的な成長をもたらすのである。

そもそも「常識がない」とこの重要な過程が味わえないのである。
なんてもったいない。

「型破り」という言葉も存在するとおり
基本となる「型」を知っているからこそ破ることが
できるわけであって、「常識」も然りである。

だからこそ逆に
「常識を打ち破る」ために逆にわたしは世の中の常識をどんどんと取り入れていこうと思っている。

そして「常識を疑う」ために、疑うための常識をどんどん集めていこうと思っている。

その「常識たち」を自分の「価値観」と照らし合わせることで
自分自身をあぶり出すための格好の材料としようじゃないか。

最近、「常識」が目の敵にされているのを見て、「常識ってそんなに悪いのか?」
という問いを持ったのであった。

「常識」は悪くない。
「常識」があるからこそ、文明社会が維持されその「常識」を人々の間で
ある程度共有
できているからこそ我々人間は気持ち良く生活を送ることができている。


というわけで
「常識」は疑いつつも戦略的にうまく取り入れ付き合っていこう。

そして時には
自分をはかる「ものさし」として
大いに利用していこうじゃないか。


…なにか面白いことばで締めようと思った
のだが
「歩く常識人」の異名を持つわたしには
なかなかくだらないギャグが思いつかない。

アイムソーリー・ヒゲソーリー。

◉オモシロ美人の今日のコトバ◉
「常識」はうまく利用し、ここぞという時に「非常識」になるべし。

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[ 「常識」VS「常識がない」VS「非常識」 ]オモシロ美人哲学。2016/03/01 22:36