「裏・タナボタ」的幸福論。

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ご機嫌麗しゅう。
オモシロ美人研究家Chacoである。

「ことわざ」
それは、いにしえから言い伝えられてきた知恵や知識、教訓を端的に表した短い句。

わたしは日々、この「ことわざ」の魅力に感銘を受けている。
いつかわたしも自身の経験を生かした「ことわざ」を作り、後世に伝えていきたいという
壮大な夢がある。

しかしながら、わたしが敬意を表しているその「ことわざ」であるが
時に、首を傾げてしまうことわざも散見されるのも、残念ながら事実である。

例えば、「棚からぼた餅」。
このことわざは、「思いがけない幸運が舞い込む」という意味で

世間では略して「タナボタ」などと呼ばれ、親しみを持って用いられているポピュラーなことわざである。

念のため注意しておくと、「タナボタ」は決して「ナタリーポートマン」の略ではない。
ナタリーを略すと「ナタポト」となり、近からずも遠からずといった感じだ。


さて、単刀直入に尋ねるが、みなは「棚」から「ぼたもち」が落ちてきて

それを思いがけず嬉しいと感じるだろうか。

どうだろう。
どちらかというと、「不快」…いや「恐怖」ではないか。

だって、突然棚からぼた餅が落ちてくるなんて、一種の心霊現象ではないか。
いわゆる「ポルターガイスト」が起こり、霊に恨みを買ってしまったのか、霊の仕業によって餅が落とされたしか考えられない。

というわけで、まずわたしは。棚から勝手にぼた餅が落ちてきたら、嬉しいどころか、目に見えない霊の存在に怯え
恐怖におののくだろう。
これのどこが思いがけない幸運なのか。不運でしかない。

しかも、口の中に落ちればまだ良いが、文明の生物我々ホモ・サピエンスはなかなか口をあんぐり開けて
上空に顔を向けることなんてそうそうないのではないか。その時間を人生の中で総計すると
おそらく5分にも満たないと思われる。

そのような非常に低い確率で上に向け口を開けている一瞬に、都合よくぼた餅が落ちてくるだろうか。

もし落ちてきたら、「タナボタ」などと生ぬるいことわざでは表現できないほどの強運の持ち主だ。
その強運を生かし、ぼた餅をもぐもぐしながら、ラスベガスへの航空券をすぐにゲットして、ゴーだ!

他に予想されるパターンとして、棚からぼた餅が落ちてきたとしても、頭の上にのっかってしまうというものがる。

そうなると、「あら不思議!簡易おだんごヘアの出来上がり♪」なんて、頭の上にぼた餅載っけて
心の中は半泣き状態ながらも
開き直っておどけるしかない。そして、「ぼたぼた」っと2つ落ちてきた日には
もう、みんな大好きミッキーマウスの出来上がりだ。まさしく夢であってほしいと願いその魔法で消え去りたい
気分になるだろう。

では、100歩ゆずって、棚からぼた餅落下の件については大目に見るとして、そもそもみなはぼた餅が好きだろうか。

わたしは大好きだ。
ぼた餅ないしおはぎは大好きで、好きな食べ物TOP20には間違いなく食い込んでくるだろう。

ぼた餅と濃い緑茶なんて最高だ。

というわけで、わたしはぼた餅を目の前にすると、嬉しい。
「きゃあ!ぼた餅だ!思いがけない幸運!」
とは思わないまでも、
「おっ、ぼた餅じゃん。うんうん、いいねぇ」
ぐらいの喜びであろうか。

というわけで、
「棚からぼた餅」ではなく、「お皿にぼた餅」であったら、これは、単純に嬉しい。
ぼた餅がすでにお皿に待機してくれているので、わたしに残された選択肢はそれを美味しく頂くだけである。
濃い緑茶のために意気揚々とお湯を沸かしにゆくだろう。

では、
「机にぼた餅」はどうか。
うーむ…。ぼた餅の下半分があの薄い紙に包まれているのであれば、「お皿にぼた餅」とほぼ同様の感覚で美味しく頂くだろう。

しかしながら、もし、直置きだった場合…。その机の清潔さいかんにもよるが、ぼた餅好きのわたしであるから
恐らく手に取り、口に運んでしまうと思われる。
それでも、「お皿にぼた餅」ほどの喜びはなく、少しの戸惑いと疑問を感じながら、咀嚼するだろう。
「どうして、ぼた餅を机に直に置いたのだ…」と。そして、もぐもぐしながら台拭きで机を拭くわけだ。

それでは、
「床にぼた餅」はどうか。
これは、いくらわたしでも大いに動揺する。
その床がいかに清潔で、綺麗であるという証拠があっても、わたしにもヒト科ヒト属ヒトとしてのプライドがある。
なんの躊躇もなく「下に落ちている物を拾って食べる」という行為には到底及べない。

もし仮に誰かと一緒にいて、床の上のぼた餅に遭遇したら、その唐突感と、床にちょこんと座する
ぼた餅の滑稽さをネタにし、大笑いすることだろう。

そして、床の上のぼた餅に若干後ろ髪を引かれながらも、そんな素振りを他の人には見せることなく
ぼた餅を後にする。

しかしながら、もしひとりだったら…。
もしひとりだったら、わたしはそんなヒトとしての理性をきちんと働かせることができるのだろうか。
途端に不安になってきた。

もし仮に、あなたがわたしの理性を欠いた行動を目の当たりにしても、どうか何も見なかったことにしてほしい。
わたしのぼた餅への愛は時にヒトとしてのプライドを揺るがすほどのものなのだ、と。

それでは究極であるが「トイレにぼた餅」はどうだろう。
これはもうわたしは怒りに震えるだろう。

どのような経緯でもって、ぼた餅をトイレに置いたのか、と。
置き場所によっては入った瞬間、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けるだろうしぼた餅を好きなわたしへの嫌がらせとしか思えない。

ぼた餅を大事に扱えない人間が、どうしてこの世の中で大成できるだろうか。
ぼた餅の扱い方を見れば、その人間の人となりがわかるとはよくいったものだ。

というわけで、棚から落下以外のぼた餅の様々な出現パターンを想定してみたが
やはりこのことわざを作ったひとの気持ち「思いがけず、ラッキー!!」というほどの高揚感は
いくらぼた餅好きのわたしであっても、どうやら味わうことができなさそうだ。

そこで、ひとつの仮説が生まれる。
このことわざを作ったひとは、もちろん、ぼた餅を心から愛していたのは間違いないが、このひとは
どのような状況であっても「喜び」を感じられるひとなのではないか、と。

すなわち「幸せ」に対する「閾値」が低いのだ。

【閾値】とは、1 ある反応を起こさせる、最低の刺激量。しきいち。
       2 生体の感覚に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値。しきいち。(参照:デジタル大辞泉)

つまり、この「棚からぼた餅」ということわざの作り主は、ちいさな刺激量でも「喜び」という反応を感じることができる人物なのだ。

一般的には、棚からぼた餅が落ちてきたら、不快に思うのが大多数だろう。
それでも、この人物は、それを「幸運である」と認識することができる。

そんな人物であるから、たまたま「棚からぼた餅が落ちてきた」という現象を採用したものの
恐らく「机にぼた餅」でも、「床の上にぼた餅」でも、…もしかしたら「トイレにぼた餅」でも
この人はそ現象を「喜び」に変え、もしかしたらことわざとして世に広めたのかもしれない

また、ぼた餅関連に限らず、まだまだ寒い折に道端に芽吹くちいさな緑の生命力をふと見つけた時
母親が作ってくれた具のない塩むすびを頬張った時、そしてなによりも、日々様々なことが起きるが
それでもこうして「生きている」という「生」の喜びを常に噛みしめることができる人物なのではないか。


というわけで、この「棚からぼた餅」ということわざ。

このことわざを口にする時に、「思いがけない幸運」に遭遇したことを、端的に人に伝えるために
今後も用いていくのはもちろんのこと、わたしは、このことわざを作ったひとの、小さいけれど確かな幸せ
いわゆる「小確幸」を日々丁寧に感じられる、「
幸せの閾値の低さ」を思いだすことだろう。

わたしはこれを「裏・タナボタ的幸福論」と勝手に呼ぼうと思う。

そしてわたしも、その人物のように、常に幸せへの閾値を低く保ち、ささやかなことでも喜びを感じられる
人間でありたいと、再認識したうえで、心新たに日々を過ごしていきたいものだ。

あぁ、ぼた餅を連呼していたらぼた餅を食べたくてたまらなくなってきた。
今からぼた餅を買いに行こうと思うが、その道すがらぼた餅が道に落ちているのを発見した際に
わたしは果たして「ラッキー!!」と思えるだろうか。

わたしの幸せに対する閾値が試される瞬間である。

◉オモシロ美人の今日のコトバ◉
「裏・タナボタ的幸福論」を胸に、常に小さな幸せを見出そう。

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[ 「裏・タナボタ」的幸福論。 ]オモシロ美人哲学。2016/03/12 16:27