シンプルに。「結果」のみを味わおう。

phonto-4

ご機嫌麗しゅう。
Chacoですのん。

なんでも最近「じどり」写真なるものが流行っている
との話を耳にしたが、本当なのだろうか。

お気に入りのじどり写真を撮って、それをSNSにUPするという行為が
頻繁に行われ、右を見ても左を見てもじどり、ということで、
もう四方八方「じどり」に囲まれての生活を余儀なくされているという。

薄々感じていたが…
とうとう日本という国はここまで落ちぶれたか。
「じどり」写真がここまでもてはやされるとは

いくら物質的にも精神的にも様々な娯楽が用意され

それらに半ば飽き飽きしていたとしても
だからといって「じどり」にフューチャーすることはないだろう。

何が楽しくて「じどり」写真をこぞって公衆の面前に晒すのか。
そんなに自分の「じどり」に自信があるというのか。

しかしながら自分のお気に入りの「じどり」を見せられたって

こちらにはただただ良い迷惑である。
かわいいと思う「じどり」写真は自分一人で楽しめば良いのである。

そのうち、比内地鶏や、名古屋コーチン、薩摩地鶏を追い求め
「じどらー」たちはこぞって地方遠征をすることになるのだろう。
奇跡のじどり写真をカメラに収めるために。

そうすると、その近辺の経済効果はなかなかのものとなるかもしれない。

「じどりん」なるゆるキャラも誕生し、ちびっこたちから大人気だ。

地域活性、町おこしの一環で、日本中の「じどらー」たちを

ターゲットとして、ブランド地鶏を育ててみるのも一考の余地があるかもしれない。
新たなビジネスチャンスの匂いがする。

しかしながら、皆にはちゃんと、放し飼いで自由に育てられている地鶏が
もてはやされる裏には、「ブロイラー」としてすし詰め状態の過酷な環境で
育てられている安価な鳥たちの存在も忘れないでほしい。

ブロイラーという生育方法の是非については長くなるのでここではその

議論は割愛するが、どちらにせよ、命をいただく「重み」を常に胸に留め
食するようにしていきたい。

というわけで、わたしの中で紆余曲折を経て
「地鶏写真」は「アリ」という結論にたどり着いた。
わたしもお気に入りの地鶏写真を撮れた暁には
ぜひこのブログでUPしたいと思う。


さて、本題に入ろう。

(え!?まだ本題に入ってなかったの??というクレームは受け付けない。)

わたしは先日、たまたま余暇が取れたため馴染みの書店に行こうと
電車に乗っていた。
座席に座り、常にオモシロ美人の研究に余念がないわたしは
多機能性小型携帯電話(画面接触型)、巷では「スマアトフオン」と
呼ばれているらしき機器を駆使して、様々な情報を真剣に検索していた。

そんな中、隣に座っていた年の頃は20代後半といったところだろうか
清楚な女性がすっと席を立ち
「どうぞ」
と言い、目の前に立っていた高齢者の女性に席を譲ったのである。

「あらー大丈夫ですよ…いいのかしら?どうもありがとう」

と、上品なご高齢の女性は遠慮しながらも礼を述べ
女性から譲られた席に、すなわちわたしの隣に座ったのである。

わたしはその一部始終を眺めていたのだが
「ひとつの優しさに遭遇した!!素敵なことである!!」
と、その二人の心温まるやりとりに心がほっこりしたわけだ。


ここで質問である。

あなたがもしわたしと同じように、自分の隣の人が席を譲ったのを
目撃したらどう感じるだろうか。

実は以前のわたしは、今回と同じような反応はできなかったのである。


今回、わたしは多機能性小型…(もういい)の操作に夢中になっていて

気がつかなたったとはいえ、高齢の女性はわたしと隣の女性のちょうど
中間あたりに立っていたのである。

女性ではなくわたしが譲っても良かったのだ。


以前のわたしであったら、自分ではなく隣のひとが席を譲ったのを目撃したとしたら

「あぁ~どうして私は気がつかなかったんだろ~~
とか、
「あぁ譲らなかったわたし、居心地悪いなぁ」
とか、

「本当にすみません!!次回は必ず!!」

という懺悔の感情が渦巻いて、おばあさんの隣で自責の念にかられまくりだったわけである。


しかしながらここで一番大切なのは

「席を譲られて座席を確保することができて、高齢の女性が楽になれた」
という「結果」、一点のみなのである。

その「結果」を求めるために必要なその座席は

清楚な20代の女性が座っていたものでも
三枚目の30代のわたしが座っていたものでも
その隣の昼から酒の匂いを撒き散らす50代の男性でも
だれのものでも良いわけだ。

ここで、以前のわたしと同じように「席を譲れなかった自分」を責め
肩身が狭くなってしまうひとたちに告ぐ。

「結果」だけに注目せよ、と。

その「過程」は関係ない、と。
加えて「自分」を介在させてはいけない

この話の場合
「過程」=誰が席を譲ったか。
となるわけだが
「過程」に意識を向け、そこに「自分」を介在させている限りは
無用な心配事や罪悪感に苛まれ日常が苦しさに満ちたものになってしまうのだ。

もうひとつの違う例えで言えば
誰かからプレゼントをもらった時である。

プレゼントをもらうことは嬉しい。
誰でもそうだろう。

プレゼントそのものももちろん嬉しいが
誰かがその人の日常の中で、自分のことを思い浮かべ
贈るものを選び、それを渡す(送る)という手順を踏んでくれた
という事実が、まずもって無上の喜びである。

で、あるからして
誰かからプレゼントをもらったら
「とっても嬉しい!!どうもありがとう!!」
はい、ここで終了。以上である。

「結果」=「プレゼントをもらった。うれしい!!」

ここだけに注目して、大いに喜ぼう。

ここで間違っても

「ええ~ありがとう!!気を使わせて申し訳ない~~何か今度、お返しするからね!」 
などという必要はないし、思う必要もない。

もし、相手が大喜びするあなたを微笑みながら眺めつつも

「ふっ、あんたね、わたしからプレゼントをもらって大喜びしているけど、
まさか…もらって終わりなんて思っちゃいないだろうねえ?
この世のルールとして「ギブ&テイク」という言葉が存在するのを知っているかい?
何かをもらったらね、それを返すというのが大人のルールなんだよ!
この2,000円のお菓子詰め合わせをもらったあんたはねぇ、
そうだねぇ…最低でも3倍、6,000円程度のお返しをわたしにすべきなんだ!
「タダより安いものはない」とはよく言ったもんだわ!
おーっほっほっほ。おーっほっほっほ!!おーっ…ゴホっ…ゲホゲホ…。」

という見返りに満ち満ちた高飛車な思いが渦巻いていない限り。
そんなひとはほんの一握りであろう。

逆に、自分が誰かにプレゼントをした時に、相手が喜びつつも申し訳なさそうにし
お返しを約束されたらどう感じるだろうか。

「え、そんなつもりであげたのではないし!」
と思うことだろう。

プレゼントをもらって、
「もらってばかりで申し訳ない気持ち」
も少ながらず存在するであろうが
「もらいっぱなしかよ、と  思われたくない自分」
「私もちゃんと考えてるからね!と思われたい自分」…

そこにあるのは

「自分がどう思われるか」
「自分がどう思われるか」
「自分がどう思われるかーーー?」

である。

「自分がどう思われるか」に意識が向いていると
せっかく相手が選んでくれたプレゼントを喜ぶエネルギーを
消耗させてしまう。なんともったいないことだ。

常に「結果」のみにフォーカスし
「過程」に捉われることなく、「自分」を介在させる必要はない。
もっともっとシンプルに「目の前の事実」を味わおう。

仕事においてもそうだ。

チームや会社で何か大きな目標を達成した時
自分は目立った活躍ができなかったと感じたとしたって
ただただチームの勝利を喜べばいい。

「過程」は関係ない。「あなた」自身が「チーム」であって
「チーム」の喜びは「あなた」の喜びなのだから。

そんな時に限って、あなたのあずかり知らぬところで
あなたの存在に勇気付けられ、あなたの行動に感謝しているひとが
必ずやいるはずだし、事実、そうなのである。

「わたしはなにもできない」と感じるのは

いわばあなたのエゴであって思い込みなのだ。
いい加減にしてほしいものである。

というわけで
以前のわたしと同じように不要な心配や罪悪感に苛まれがちな諸君。
これからは、
自分が直面した「優しさ」はただただシンプルに味わうことに専念しよう。

そのことこそが、きっと他の誰かへの「優しさ」への原動力となるはずだから。


そう、「地鶏写真」にフューチャーするのも良いが

自分を喜ばすことにフューチャーすることを忘れずに。

そうだ、わたしは地域貢献の一環として
ゆるキャラ「じどりん」のデザインを一般公募することにしよう。

じどりんの趣味は、「多機能性小型携帯電話(画面接触型)」
を用いて「自撮り写真」を撮ることである。

諸君にもふるってご応募頂きたい。

追伸:この写真はわたしのお気に入りの地鶏(?)写真。
その名も「おかっぱアヒル」である。

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[ シンプルに。「結果」のみを味わおう。 ]オモシロ美人メソッド2016/02/20 11:13