「桜」に見るブランディング。

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ご機嫌麗しゅう。
オモシロ美人研究家Chacoである。

東京では桜は終わってしまったが、未だ花粉症が終わらないのは
いったいどういうことなのだ。

花粉は桜がまだ蕾の段階から、飛び始めている。

3月はじめ春寒の頃より、花粉症持ちのわたしたちをやつらは裁断なく苦しめてきた。
くしゃみを連発しては腹筋をいため、目をかきむしっては目の周りに色素沈着をもたらしてきた。

「春は恋の季節」などと言う。

しかしながら、目の周りを赤く腫れ上がらせたわたしを見て、

「もしやここは上野動物園か、はたまたジャイアントパンダの聖地、四川省なのかニイハオ。
シセンショウノマーボードウフハカライケドオイシイアルヨ。シセンショウヨイトコイチドハオイデ。アイヤー!」

と、会う人の自身の国籍をあやふやにさせてしまうほどに、春の季節、わたしの顔はパンダの様相を呈する。

そして、鼻のかみすぎで鼻の周りがささくれ立つわたしの心もおおいにささくれ立ち
ポケットに手を突っ込み「チェッ」と吐き捨てながら、街を練り歩きたいほどに不機嫌だ。

わたしにとって、春は恋とは一番縁遠い季節であるのは言わずもがなであろう。

そして月日は過ぎ4月。春本番を迎え、桜が一気に芽吹く。

満開の桜を見上げ春を楽しむわたしたちの目を、まだまだしぶとく花粉が攻撃し、鼻を刺激する。
やつらのせいでおちおち桜を楽しむ余裕もないほどだ。

そして、咲き始めからたったの2週間で、桜は短いその盛りの時を終える。
桜吹雪の中、舞い踊る花びらに、せつなさとあの人への淡い想いをのせて、思わずこぼれるため息であの人の元へと
届けようとした瞬間、ため息前の酸素の吸入によって、またも花粉が体内に侵入し、ヒスタミンが体内にばらまかれ
あらゆる諸症状をまき起こすのであった。

おちおちあの人への切ないため息すらこぼしちゃいられない。
そもそもあのひととは誰なのだ。
そんなあの人なんておらず、花粉症で鼻を詰まらせ、酸欠となったわたしの脳が作り出したまぼろしであり
幻想であろう。

まぼろしならせめて、ディーン藤岡あたりであってほしいと願うわたしの頭は煩悩だらけだ。
藤岡よ。いや、ここではあえてディーンと呼ばせてもらう。そんな、だめなわたしに恋してください!

というわけで、この時期は花粉におおいに振り回されているわけだが、
もし仮に、桜を楽しむ期間と、花粉症で苦しめれる期間が逆だったらどうなるのだろう。

桜は2月末から3月頭にかけて咲き始める。
咲き始めはみな「わ〜桜が咲き出した〜」と、喜び、嬉々として満開の時を待つだろう。

しかしながら、その歩みはノロい。
3月いっぱいかけて桜はゆっくり花を咲かせる。

中途半端な花の咲き具合が1ヶ月も続くわけで、若干、みなのテンションは下がるのもしょうがない。
テンションは日本語で緊張状態を表すので、そんな緊張を一ヶ月もひっぱることはできないだろう。

それでも4月を迎えて、一気に満開を迎えた桜はやはり美しく、若干下がっていたみなのテンションも、
ここで一気に急上昇。桜の下で飲めや歌えや大騒ぎである。

しかしながら、満開の状態は4月から約1ヶ月続き、最初はあんなにも大喜びしていた満開の桜だが、
「美人は3日で飽きる」という表現もあるだけに、その桜の美しさは変わらないものの、最初の頃の
新鮮さは薄れてくる。

咲き始めは理性を失うほどにその美しさの虜になってしまうわたしたち日本人でも、その期間が長く続くと、
「うん・・・まぁそりゃ綺麗だけどさ。」
ぐらいの冷静な感想を述べる程度にとどまってしまうことだろう。

そして、4月末から5月初旬まで桜は散り続ける。

散り始めはやはり、満開時と異なる、薄い花びらの舞う、儚くも可憐な美しさ
に心奪われるが、そこからがなかなか長い。

昨日も散ってたが、今日も勢い良く散っていて、明日も明後日もきっと散り続ける。
まるで花咲か爺さんのような人物が、枝の上から花びらを撒き散らかしているかのように
「わっさ〜」と、儚いはずの桜は元気に散り続けるのだ。

せつなさを誘うはずの桜の終わりだが、そんなに元気いっぱいの様子だと、なかなかおセンチにもなれず、
なんだか調子が狂うだろう。

そして、あまりに散り続ける桜に、「いったいどこにそんなに花びらを隠し持っているのだ」と、
狂ったように散り続ける桜に、恐ろしくなってきて、なんとか桜並木を通らないで帰れぬものかと
迂回ルートで通勤通学をすることとなる。

そんな行き帰りの疲労によって、5月病なるものに悩まされるひとが増えてゆくわけだ。

そして、桜があまりに散り積もるので、なんのありがたみもなくなり、しまいにはダイソンの掃除機で、
面倒臭そうに圧倒的な吸引力でもって吸い取られてしまうのだった。

やはり、こう考えると、いつもわたしたちの心に、どことなく物足りなさを残してくれる
絶妙な期間でもって、桜はわたしたちを楽しませてくれているのだ。

また、花粉症が逆に2ヶ月ではなく、桜のように2週間だけの苦しみだったら、
わたしはここまで花粉症を憎んではいないだろう。

むしろ、春の風物詩として、「おーおー今年もよく来た。」ぐらいのこころ持ちで
つかの間のくしゃみによって腹筋を鍛え、目のかゆみによってパンダになったりして
周囲に笑いをもたらしていたかもしれない。

期間が短いだけで、花粉症との向き合い方も大幅に変わることだろう。

花火は一瞬で夜空に消えるからこそ、尊いと感じる。

虹も雨上がりの空に、突然現れてはすぐに消えゆくからこそ、その偶然にわたしたちは喜びを見出す。

宇多田ヒカルも、最初、なかなかテレビ出演をせずに、素顔が神秘のヴェールに包まれていたからこそ
その実力もさることながら、ブランディングにより厚みをもたせることに成功したわけだ!!

回りくどくなってしまったが、ブランディングには、「余白」、「物足りなさ」、「余韻」を
意識すると良いのかもしれない。

何かを説明するときには、具体的にではなく、抽象度を上げて、「余白」をつくることにより
ひとりひとりが自分なりの解釈で持って、腑に落とせるような表現に努める。
例えば、想像力を掻き立てるような比喩を用いてみたりする。

何かを発信する時も、「あ、もう終わっちゃうの!?」と、若干の物足りなさを残すのはありかもしれない。
「もっと見たいよ。」「早く早く」と、その物足りなさによって相手の心をつかむことができる。
恋愛と同じである。要はミステリアスということだ。
(しかしながら、常に不完全燃焼だと、受け取る方もストレスとなってしまうので、しっかりと
オチをつける場合とのバランスが必要かもしれないが。…これも恋愛と同じだ!)

「余韻」については、目の当たりにしたものについて、自分の頭で考え、心でなにかを感じた場合に
じんわりとその人に残り、それが後にふとした瞬間にまた甦ってくるもの。
なので、この「余韻」を残すためには、想像力を促す「余白」が必要となってくる。

まだまだ実験中ではあるが、自己開示を含めた「わたしだけのストーリー」と、
読者を巻き込む「比喩を用いた抽象度を上げた話」、この2つをちょど良いバランスで盛り込んだものが、
読み手を飽きさせない記事になるのかしら…、なんて、日々、記事を書く中で試行錯誤し、
様々な学びを得ている次第である。

これからもそれらを意識した上で、前半の「オモシロパート」と後半の「美人パート」
それぞれでより磨きをかけていきたいと思っている。

そして、あれだけ「物足りなさ」の重要性をうたっているわたしであるが今日も3,000字超えだ。

まるで、2ヶ月以上かけてちんたら咲く桜を見る時のように、最後まで読んでくれた諸君のテンションは
だだ下がりしているかもしれない。

でも、ほら、「美人は3日で飽きるけれどブスは3日で慣れる」というではないか。

1日も早く、わたしのこのくどくどとした文章にも慣れて頂きたいものである。
これから先も、長く連れ添っていただきたいのですから。

◉オモシロ美人の今日のコトバ◉
ブランディングには、「余白」、「余韻」、「物足りなさ」を意識すべし。
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[ 「桜」に見るブランディング。 ]オモシロ美人ブランディング。2016/04/13 01:24