「ニュートラル」ではない自分を「ニュートラル」に許すことから始まるのだ。

 

わたしたちが経験する「悲しみ」、「苦しみ」、「喜び」、「怒り」、「幸福感」等、それらのあらゆる「感情」や「経験」は、すべて自分が、何をしても、何もしなくても、何者にもならなくても、すでに、いつなんどきも「完璧な存在」であるということに「気づく」ために経験しているのではないかな。

 

そんな、今までの人生において、幾度も、様々なひとの口から聞いたり、本で読んだり、目で触れてきたこと、わかったような気でいたことを、「もしかしたらこういうこと…?」と、最近は、この身を持って少しづつ実感している。

 

最近、自分の中の意識の変容が激しくて。

 

本当にわかったような気でいたなぁおい、と自分に自分でツッコミを入れたくなるような気づきが多いです。

 

そんな風に、今でもわかったような気でいて、あとからすると大いなる勘違いを犯していたなぁと苦笑いするようなこともきっとあるのだと思うけれど、わかったような気にもならなければ、このようにブログも書けないわけで、時にわかったような気に、勇気を出してなってみることも大事なのかもしれない。

 

最近は、あらゆる感情が押し寄せてきて、心の中で、誰かを責めて、誰かを責めてしまう自分を責めて、誰かの行動を咎めて、それに倣って自分の過去の行動を咎めて・・・とか色々あります。時に「え?かなりどうでもいいことで悩んでない?」と、きょとんとして、清々しい気持ちになってみては、「もう何もしたくない…」と絶望感が襲ってきたり。

 

まぁとにかく、忙しい!!

それを飽きもせずに内観する日々でございます。

 

で、それらの感情が浮かんでくるたびに直面するのは、やはり、わたしの中には、当たり前に信じてきた「常識」や「社会的通念」などから形作られた強固な「価値観」が横たわっていて、誰かを責める時も、自分を責めてしまう時も、それらの「価値観」が自分自身の思考を牛耳っているなぁと、そんなことに気がつく。

 

裏切りは良くない。

嘘は良くない。

ひとのことを信じなければいけない。

ひとを傷つけるのは良くない。…etc

 

自分の感触としては、今まで一般的な価値観を持って生きてきている人たちに比べたら、なかなか非常識に、そしてかなり自由に生きてきて、そのような価値観によって築かれた自分のボーダーラインは、もうほぼないのでは…なんて思っていたのだけれども、とんでもない。まだまだ自分の中に、それらのボーダーラインは強固な「要塞」として存しているな、そして、自分という囚人を閉じ込めて、ことあるごとに自分自身が看守として制裁を加えているな、という気づきを得た。

 

(ちょっと、話がそれるのですが、先日横浜の中華街に行った時に、ふと吸い寄せられるように占いの館に入り、手相を見てもらったのですが、わたしの左手にはKY線という相があるそうで笑。人々が空気を読んで言えなかったり、羞恥心に憚られてやれなかったりすることを、結構躊躇なくやれてしまうひとに多いらしい笑。KYだからこんな誰の役にも立つかもわからないブログを書けたりするのかもね。)

 

まだまだ自分は、善悪や、真偽、その他様々な二項対立の軸で様々な物事を判断しているなぁと。そんなことを思い知らされています。

 

様々な感情、特に「負」の感情(誰かを非難したり、自分を責めたり)が喚起される時、それらは、自分の中に存在するそれらの「二項対立」によって育まれた自分の価値観に自分が反した時、それを誰かが犯した時に、生じるものなんだなぁと、至極当たり前のことを確認しています。

 

***

 

そして、生きている上で、時々出くわす「ニュートラル」な存在。

 

何かを非難することなく、誰かの肩を持つことなく、ただひたすら「中立」な立場で、物事を捉え、淡々と生きているひと。

 

会うだけで、安心する。

 

どんな自分の醜い部分をさらけ出しても、それらをジャッジせずに受け止めてくれると同時に、まだまだ感情の起伏が激しい自分の至らなさ、未熟さを痛感させられる人がいる。

 

そして、そうなりたいと願う自分がいる。

 

そうなれたら、そのような視野で人生を歩めたら、今の自分が苛まれる「負」の感情に左右されることなく、ひたすらに、誰と比べることもなく、自分だけの「喜び」にフォーカスして生きていけるのだろうなぁと、思う。

 

ただ、そうなりたいと願うあまりに、そこを一足跳びに目指すのは、少し違うのだろうなということに気がつく。

その前に、そのような存在になるためにわたしがすることは、今の自分を全肯定すること。

 

嘘をつく自分も。

嘘をついたひとを咎める自分も。

裏切る自分も。

裏切ったひとを責める自分も。

ひとやものごとをジャッジしてしまう自分も。

自分を責めてしまう自分も。

だれかを信じることができない自分も。

だれかに優しくできない自分も。

 

すべて、そのままでオールOK。

完璧だよ!と太鼓判を押す。

 

何よりも、まずはそこから!

 

と、同時に、その都度感じた自分の「感情」を大切にする。

 

例えば、みんなが好きなのに、自分が嫌いだと感じるひとや何かがあったとしても、まずは自分が感じた「なんか嫌だ」と感じた感情をに敏感になる。

 

そして、そう思ってしまう自分を責めない。

 

ただ、そのように感じる時に、自分の中に横たわるどんな価値観が、わたしをこの人が嫌いと思わせるのだろう、ということを考えてみる。

 

そこまでできなくても、「今、自分は嫌いだから嫌いと思うけれど、何か自分の持っている価値観に基づいて、この「嫌い」という感情が喚起させられているのかもしれない。」ということだけ念頭に置いておく。

 

でも、何よりも、その時自分が感じた「想い」が、自分にとって何物にも負けない絶対的な「基準」であることを認めて、その感情を決して抑え込んだり、責めたりしないこと。

 

ただただ感じる。

 

逆説的だけれど、「何かをジャッジしてしまう自分」をジャッジしないことから、「他人やものごとをジャッジしない自分」への道のりが始まるのだと思う。

 

ジャッジしているな、と認識するだけでいい。

 

まず、自分の全ての性質、現代において、「醜さ」や「悪」、「偽り」、「汚点」とされている負の性質を持つ自分、それらを含め、そんな自分でも「完璧である」と認める。

 

どんな自分であっても、最高な存在であり、確固たる「自分」として、認識していること。何かをしなくても、何者にもならなくても、何をしていても、その「ありのままの自分」を「揺るぎない自分」として、受け止める。

 

そこに「裁き」もなければ、かといって「賞賛」もない。

 

ただ、今存在している、「自分」こそが「自分たるもの」という認識を持つこと。

 

自分を認めることに、過去の経験や知識から形作られた価値観は必要ない。

 

きっと、ニュートラルな人々は、それらの地点を通過してきているのだと思う。

 

そして、それをひとは「自己肯定感」と呼ぶのかもしれない。

 

そこには、例えば、「容姿」や、「社会的地位」、「性格」、「キャラクター」などの外側の要素は、全く関係なくて。

 

それらの判断基準は、わたしたちが知らぬ間に植え付けられた「価値観」によって価値付けられているものに過ぎないから。

 

この自分への信頼感は、幼い頃に、知らぬ間に育まれたひともいるのかもしれないし、何かの経験を経て、自分と向き合いながら、体得してきた人もいるかもしれない。今もなお、その感覚が欠落していることよって、わたしのように自らを苦しめているひともいるかもしれない。

 

だから、そんなわたしたちが、最初に為すべきことは、どんな自分であっても、何か出来事に対して、負の感情が出てきて裁いてしまっても、正の感情が出てきて喜びにあふれたとしても…

(今カフェの窓際でブログを書いているのだけれど、ふと窓の外を見たら、目の前にちっちゃい我が子を抱き止めようと笑顔で両の手を広げているお母さんがいて、お母さん目掛けてちっちゃい女の子が覚束ない足取りで走って行って、これ以上ないぐらいの喜びにあふれた笑顔でお母さんに抱きついたその様子を見て、自然とひとり微笑んでいる自分がいるけれども、この感情すらも、母娘という関係性に対して自分が抱いているなんらかの価値観によって喚起されているのだよなぁなんて考えたり。わぁめんどくさっ。)

それらをすべてひっくるめて、抱きしめる。自分としては「過ち」を犯してしまったとしても、「成功」を為したととしても、すべてを淡々と受け止める。

 

「自分を赦すと、ひとを赦すことができる」という言葉の真髄はこういうことか、体感を持って思い知る自分がいる。

 

そう。まずは、なによりも、自分を全肯定。

 

というわけで、気がつくと、誰かを、何かを、そして自分を責めてしまって、辛い思いをしてしまう時に、「それでも、自分は完璧なんだ!」と言い聞かせてます。

 

心の中で、時に、声に出して。(場所選んでね!)

 

自分自身が、外側に依存せずに、「真の幸せ」を感じるために。

 

何事もニュートラルに判断し、ニュートラルな存在になるために、わたしたちが今やることは、「ニュートラルではない自分」を「ニュートラルに、認めてあげる」こと。

 

そこにどんな価値基準も挟めないようにすること。挟めてしまった時にも、ニュートラルに赦してあげること。

 

そこに気がつくと、あぁ、このことを学ぶため、どんな自分でも「完璧な存在」として捉えることができて、どんな自分に対してもなんともいえない安心感を得るために、わたしの今までのすべての経験があったのかなぁなんて思えてくるし、これからの経験もそこにつながっているのだろうなと思えてくる。

 

だから、何が起こっても、受け止められるかも、という「希望」も湧いてくる。

 

まだまだぶれるし、感情も揺らぐけれどね。それでもOK。

 

だから、もし、今あなたが苦しみの最中、悲しみのど真ん中、立ち直れないような絶望感に苛まれていて、自分を責め、誰かを責めてしまう日々に苦しみを覚えているとしたら、それでもなお「自分自身は完璧な存在である」ということに気がつくために、あなたにとって必要な出来事なのかもしれない。

 

多分、それを信じるのはなかなかすぐには難しいかもしれない。

 

でも、もし苦しみに苛まれている時(大抵ひとを責めている時は、自分を同時に責めているのだけれど)そういう時に、「それでもわたしは完璧なんだ」と合言葉を自分に投げかけてみるといいかもしれない。

 

何かの価値観が創り出した「完璧な自分」を目指した「不足感」や「不安」、「恐れ」を起点にして、必死に行動してもがいているなら、少し立ち止まって「自分はすでに完璧である」ということを思い出すための、時間的、精神的ゆとりを持つ時間を、勇気を出して、とってみるといいのかもしれない。

 

自分の行動の源、自分の体の様子を、一旦注視してみるゆとりを持ってみるといいのかもしれない。

 

今はこの言葉を受け取れなくても大丈夫で、わたしもずっと受け取れなかったから不自然な無理をしてきたけれど、それも「自分で気がつくため」だったんだなぁと思うので。

 

だから頑張りに頑張り果てて、いつか絶望とともに、その真実に自分自身で「気がつく」ために、その「無理」がいまあなたに必要なのだとしたら、自分の今の思うようにやってみていいのだとも思う。それでもきっとたどり着けるから。わたしにも「無理」が必要だったように。

 

何をしていなくても、何者でなくても、自分はもう「完膚なきまでに完璧な存在」であることに確信を深めていく過程で生まれた、「こうしたい」もしくは、「これはやりたくない」という純粋な想いこそが、きっと、あなた自身、そしてわたし自身を真の「幸福」へと導いてくれるための「願望」なのだと思う。 

そして、その願望に基づいた行動こそが、「愛」と呼ばれるものなのかもしれないと思う今日この頃でございます。

 

p.s.あぁもう「真面目か!」ってツッコミたくなるけれど、これすら自分だ〜〜!と言い聞かせてます。笑。またオモシロ記事も書きたいな。

 

[ 「ニュートラル」ではない自分を「ニュートラル」に許すことから... ]自分を信じること。2017/06/03 21:55