わたしの半生。前編

1981年5月28日AM

東京都の産婦人科にて産声をあげる。

実家にて祖父母、父による名付け会議が行われた。

祖母がクリスチャンだったこともあり、新約聖書の「マルコによる福音書」から持ってきて「マルコ」はどうだ、そうだ日本人だから漢字で、「丸子」にしよう!と、わたしの名前はほぼ「丸子」として仮決定し、産後入院している母から実家の父へ電話があった際に、仮決定事項を父が伝えたところ、母からの「ま、丸子はちょっと・・・」という反対を受け、結局「久子」という名に落ち着く。

どうして「久子なの?」と両親に聞いても、腑に落ちるような答えを未だもらっていない。「字画が良かった」とか、なんだかごにょごにょ言っていたような気がするが、中でも印象的だったのは、姉が7つ上、兄が6つ上で久しぶりに生まれた子供なので「久(しぶりの)子だよ」と冗談で言われたことである。「そんな安易な名付け本当にそうだったらひどい」と心の中で密かに傷ついていたとは、家族は思っていないだろう。

子供の頃は、とにかく元気だった。

庭の庭石に数人の男の子たちを立たせて、偉そうに色々指揮をとっていたという話なので、なかなかのガキ大将だったのではないかと思われる。あまり覚えていないけれど。

小学校入学。

基本的に小さい頃のことはあまり覚えていないけれど、小一の時の担任の先生が堅物のおじいさん先生で、給食中は私語禁止。もし少しでも口を開いたら、両手を自分の頭の上に乗せて、1分間立たせられるという、今となってはとんでもない体罰チックなことをさせられていたという記憶だけはなぜかある。

あ、あと給食の「ソフト麺」が美味しかったなぁ。つゆがお椀で配られて、そこに袋に入ったゆでうどんを入れて食べるやつ。懐かしい。覚えてます?

小2になるタイミングで、家族で仙台に引っ越す。

小3の時に、両親が飲食店を始める。最初はパスタ専門店。

やはり、家に帰って来て母親のいない日々は、幼いわたしには寂しかったのだろうか。

ある日、学校から帰ってきて、当時中3年生だった6歳上の兄に、「(両親の)店に行きたい!」と駄々をこねたことがあった。兄はそんなわたしを咎めることなく、中三でお小遣いもそんなになかっだろうに、好きなお菓子を買ったらいいと、わたしに1,000円をくれたことを記憶している。

うちの兄は、優しい兄だ。当時、「明日なんてバカヤロー!」という寝言を時に放っていたが、その優しさ故、誰にも等しく訪れる「明日」すらも罵倒したくなるほどに、なにか抑圧されていたものがあって、それが睡眠中に表出していたのだろうか。小学校から大学までとかく野球一筋の兄だった。

加えて、7つ上の姉がいる。

仙台に越して新居ができるまでマンション暮らしだったのだが、その2年間は、姉と同じ部屋で過ごす。

わたしの面白いもの好きは、姉のダウンタウン好きに端を発する。お笑い芸人としてというより、当時の彼女は、松っちゃんを、アイドル的存在として崇拝し、ダウンタウンが出したCDを購入し、ラジカセでリピートして聴いてほどだった。「松ちゃん遊ぼ、浜ちゃん遊ぼ」という、今考えると、ひどくとるにたらない歌詞だったが、彼女は二人の掛け合いに心酔していた。

その後、姉はニューキッズオンザブロックを好きになったり、SMAPを好きになったりと、色々と好きになって忙しそうにしていた。わたしはそういった音楽的趣味から、洋服の趣味まで、姉に多大なる影響を受けて育つ。今も、ミスチルのコンサートには一緒に行ったり、憎まれ口を叩き合いながらも、それなりに仲良くやっている。

新居ができて、小4の時に引越しをする。初めて自分の部屋を持つ。

間も無く、両親の店2店舗目がオープン。パスタ専門店に続き、今度は西洋料理店。洋館のような素敵な内装と外装のレストラン。時々、祖父母たちと両親のレストランに客として訪れた。海の幸のサラダと、黒毛和牛のタンシチューが大好きだった。母も父も忙しそうにしていた。

小5の時、クラスのお楽しみ会で、劇をやる。

「ヘンゼルとグレーテル」、そして、「赤ずきんちゃん」のパロディで、「ヘンデンナァとグレーテルヤンケ&防空ずきんちゃん」という劇の台本を書き、わたしはグレーテルヤンケ役を熱演。いわゆるプレイングマネージャー。

グレーテルヤンケはその名の通り、アブノーマルで阿呆な兄のヘンデンナァと、ひょんなことから出会うぶっ飛びキャラの防空ずきんを毒づき、つっこむという役柄。衣装もちゃんと作った。笑いもとり、児童や先生たちからも大好評。この時から、くだらないことや、仲間となにかを作りあげることに喜びを感じる。

小5の時の学芸会で、生徒全員で、宮沢賢治の詩を朗読することになったのだけど、最初、たったの一言を発するだけの役だったのが、担任の先生より、「指揮者」という主役級の役割に抜擢され、ずらりと並んだ児童たちを背に、朗読をリードしたり、客席に向かって色々と補足説明をする役を任される。この時に、人前に立つ快感と喜びを実感する。そして、子供ながらに、担任の先生にどことなく期待をされている感覚を受ける。

読書感想文のコンクールの学年代表にも選ばれた。

あと印象に残っているのは、在学していたのが出来たばかりの新しい小学校だったため、「児童会の歌」の歌詞を生徒からの公募で作ろう!みたいなことになって、わたしの書いた歌詞が最終選考の3つに残った。改めて練り直し、提出して、最後は生徒の投票によって決められるというものだったのだけれど、一旦作ったものを一から作り直そうと決意し、多趣味で俳句もたしなみ、文章を含む多岐にわたる芸術に造詣の深い祖母に助けを求めた。

夜な夜な、祖母とああでもないこうでもないと喧々諤々と話し合いながら歌詞を作っていったのだけれど、練りに練りすぎて、「これだとまわりくどい」という結論に至り、むしろものすごくシンプルな歌詞に落ち着いた。どのような歌詞だったか覚えていないが、まるで童謡のようなものすごくシンプルで、幼い歌詞だったのを記憶している。結局選ばれることはなかったのだけれど、わたしが卒業して10数年後に同じ小学校に入学した甥っ子が、実家で大声で児童会の歌を歌っていたりするのを聴くと、「もしかしたらわたしとおばあちゃんで作った歌詞をこの子が歌っていたのかもしれないんだよなぁ」とどことなくせつなく、懐かしい気持ちとともに、祖母と格闘した日々を思い出したりする。

この頃にさくらももこのエッセイ、「もものかんづめ」を読み、衝撃を受ける。こうも取るに足らない日常の一コマを、ここまで仰々しく、堅苦しい表現で、面白おかしく読ませる筆者の類稀ない才能に、ただただひれ伏すと同時に、わたしも気がつけば、彼女のような文体を書かずにはいられないようになる。わたしの今のこの文体はすでに小6の時に確立されたといっても過言ではない。

小さな頃から足だけは早く、小学校総体のリレーの選手に選ばれ、アンカーとして走る。

小学校の卒業文集で、やはりさくらももこに影響を受けた今のような「である調」で、当時話題の的になっていた「ノストラダムスの大予言」を恐れ、憂う気持ちを綴る作文を書いた。

当時の担任が、「小学校の思い出を書くのもいいけれど、小学校6年生の今、自分が考えていることを書いたら、後から読み返した時、より一層思い出深く感じると思うよ。」というアドバイスに忠実に従ったまでだ。大変に、素直な子供である。

しかしながら、ふたを開けると、みんな揃いも揃って、「修学旅行の思い出」やら、「運動会の思い出」やら、文集に並ぶは「思い出」のオンパレードで、「ノストラダムス」についての不安を述べ、将来を憂い、「予言が当たらないようにするにはどうすればいいか」までの考察を述べた「である調」のわたしの作文は、浮きに浮きまくっていたのは言うまでもない。この頃から、以前より薄々感じていた「わたしは変わり者なのか」という疑念は、確信へと変わっていく。

小学校を卒業および中学校に入学。

足だけはやたらと早かったので、陸上部に入部。

100メートル走と400メートルリレーの選手となる。

中学総体の県大会で、100メートルでは決勝進出。入賞を果たす。

400メートルリレーでは、決勝で3位になり、東北大会への出場を決める。

夏休み中に行われた東北大会は、岩手県の盛岡市で開催されるため、遠征する。

大会前日に盛岡市内を観光し、名物わんこそばを食べる。50杯くらいを食べて、先輩の中には90杯近く食べたひともいた。案の定、翌日の試合は史上最低の記録であっけなく東北大会予選で姿を消す。

この頃はショートカットで、部活で日焼けをして真っ黒。

それでも人並みに恋もした。

同じ陸上部の男子なのだけれど、陸上部のわたしと同じ別の「ひさこ」という名の子をその男子は好きなようだという噂を聞き、せつない片思いを経験したりした。よりによって、どうして現代においてそう多くない「ひさこ」という名の女子を好きになるのか。そもそも、どうしてわたしは「ひさこ」という名なのか。ここでも改めて、自分がこの名前である意味を考えることになる。

中学1年の時は、仲良し4人組で行動していたのだけれど、ある日喧嘩が勃発する。

ふざけて、そのうちの一人がわたしに軽くビンタをしたから、わたしもふざけてやり返したら、思いの外強くビンタをしてしまい、その子を泣かせてしまった。他の2人から「今のはひどい」と責められ、「だって最初にやったのはあっちじゃん!」とわたしが逆ギレ。ひとりグループを離れ、すれ違っても「ふん」と口をきかず、数日を過ごす。

数日後、どう考えてもわたしが悪いのに、他の3人の子たちがわたしに謝りに来てくれた。大人である。

意地を張って、自分の非を認めずに強がっていた自分を恥じ、仲直りする。

中学2年は楽しかった。とかく女子が強いクラスで、合唱コンクール、文化祭のクラス新聞、球技大会、あらゆるクラス対抗で競う行事において、タイトルを総ナメにするほどだった。合唱コンクールの練習では「ちょっと男子歌ってよ!」と、心やさしき(弱き)男子たちを、女子たちが叱咤するおなじみのシーンを繰り広げたのは言うまでもない。

幸いなことに、自分がいじめられたこと、もちろん、いじめる立場になったこともないし、誰かがいじめられている場面に遭遇したこともない。けれど、「いじめ」という事象ではないにしろ、幼ながらに、人間関係においては、悩みを抱えることもしばしばあった。

どことなく漂う、女子特有の「マウンティング」というのだろうか。いつからか、影響力を自然に持ち始めた子の意見や動向を、逐一みんなが伺い、その子に同調することで、自分の身を安泰に保つという・・・大人になっても少なからず経験する感覚を、この頃にすでに感じることもあった。

わたしは切ないかな、その影響力を持つ立場になることはなかったが、その影響力を持つ子に同調することも自分の中ではどことなく腑に落ちず、影響力のある子とは違う意見になっても、自分の意見を述べることに頑として固執していた。でも、他の子は、やはり影響力のある子の意見と同意見を選ぶので笑、四面楚歌になることもしばしば。その都度、寂しく、影響力の乏しい自分への不甲斐なさを感じたり、安易に強者に同調する周りのこたちにもっていきようのない怒りを覚えたりもしていた。

でも、今思い返すと、「彼女たちは保身のために影響力を持つ子に同調していたのか?」、「ただ単に、本当に、その影響力を持つ子と同意見だっただけではないか…」とも思えなくもない。

最近、自分が「絶対だ」と信じていることが、ただの「幻想」である可能性を大いにはらんでいることを実感とともに肚に落ちることがよくあるので・・・。どうだったのだろうね。今となってはわからない。

中学2年の頃、友人と、自主制作ドラマを家にあったビデオカメラで撮影して遊んでいた。

何本か撮影したが、そのうちで印象に残っているのが、わたしが「レベッカ」というアメリカ人の女の子を演じたドラマだった。ここに来てようやく、祖父がアメリカ人でクォーターであるわたしの外国人風の顔が役立つ時がきたのである。

あるところに、日本人の2人姉妹がいた。両親だけ、アメリカに父の仕事の関係で駐在することになったので姉妹だけで日本で二人暮らしをすることになったのだ。

両親は娘二人を日本に残してきたことが心配で、アメリカ(アメリカってアバウトだなぁ笑)で出会い、日本が好きで日本に留学をしたいと思っていたアメリカ人の女の子「レベッカ」に、「日本に行って、二人だけでは心配だからうちの娘たちと住むように」とお願いする。

そんな経緯で、姉妹の前に現れたアメリカ人のレベッカ。姉妹の性格であるが、姉はおっとりとした天然で、妹はしっかり者で負けん気の強い子。案の定、アメリカ人で遠慮のないアバウトなレベッカ(アメリカ人に失礼)と、妹はソリが合わず、衝突ばかり。

しかしながら、レベッカが何かの事情で(忘れた)アメリカに帰らなければならなくなり、ずっと仲違いしていた二人は別れる間際にようやく和解する・・・。そんなドタバタコメディのドラマだった。脚本もなく、コマ撮りで少しつづ撮影したのだけれど、最後全部をつなげて観たら、あんなに熱演したのに、わずか15分くらいの薄っぺらい内容だったことにがっくしする。

他にも、「ひとつ屋根の下」よろしく、両親のいない5人兄弟の長男(あんちゃん:江口洋介)役として、ぼうしを後ろ前にかぶり、クリーニング屋ではなく、弁当屋を切り盛りする役に興じたりした。

サスペンスも撮った。

あぁ。ただひらすらに楽しかったなぁ。

あの時は、わたしは「やりたい!」というものすごくやりたい子で、他にも一人ぐらいわたしと同じくらい「やりたい!」という子がいて、あとは「うん、まあまあやりたい」、「やってもいい」という子が何人かいて、おそらく本当は「やりたくない」子もいたのだろうなぁと推測する。わたしは、自分の「やりたい!」を前にすると、「やりたくない子」を見て見ぬ振りをしてしまっていた気がする。直接聞いてはないけれど。

わたしは、「やりたい!」を目にすると、もはや「やらない」方向へと舵を切らざるを得ないような、そんな可能性をはらむものは全て排除してしまう、相当に自己中なやつであることがうかがえる。要は、とてつもなく「子供」だ。「やりたいことをやらない我慢ができない」し、「やりたくないことをやる我慢もできない」という性質は、今後も人生のところどころで垣間見せることになり、周りを翻弄していく。(偉そう)

学校での成績は、上の下・・・くらいだろうか。

とりたてて、ものすごく出来るやつでも、とことん出来ない子供でもなかった。

英語は結構好きだった。

中学受験は、私立の大学の付属高校に合格。公立は受験せず。私立の方がお金がかかるから公立に・・・などという奥ゆかしい考えは皆無で、今考えると、両親ごめんね、という気持ちに苛まれる。

高校入学。3年前まで、男子校だった高校なので、一学年で300人中、女子は50名ぐらいだった。よく、「じゃあ男子にさぞモテたことでしょう!」と聞かれるけれど、そういう場合、男子の目は思いっきり校外に向けられるので、悲しいかな、モテることはなかった。と、いう言い訳をして今日まで自分の不モテ説をしのいできた。

高校では、中二の時に日本で開催された「W杯バレー(V6がデビューしたやつ)」に多大なる影響を受け、バレー部に入部する。

(そういやその頃、W杯バレーに出ていた身長2mの南克幸選手(旭化成)を好きになったりした。小学校6年の時のリレハンメルオリンピックでは、ノルディック複合の萩原選手に恋に落ちたりもして、この頃のまだまだ青かったわたしは、スポーツ選手のその勇ましい奮闘ぶりと、「スポーツ出来るくせにそこそこかっこいいルックス」というダブルパンチにいとも簡単に、恋の病へと誘われた。

しかしながら、中1の時にミュージックステーションに出演していたMr.Chidrenヴォーカルこと、桜井和寿との、(ブラウン管を通しての)衝撃的な出会いより、20年以上、現在に至るまでわたしは彼に恋焦がれ続けることになる。わたしの中では彼はまさに内外ともに「パーフェクト」な存在でしかない。一生、死ぬまで、彼と、彼の生み出す作品、そして彼の仲間達を愛で続けるのだろうことは、もはや火を見るより明らかである。

途中、2002年日韓W杯のベルギー戦で同点のゴールを決めた鈴木隆行氏を好きになったりもして、サインをもらいに福島の遠征場所まで赴いたりもし、少々の浮気をしたこともあるが、やはり、わたしは和寿を忘れられず、結局は、和寿に戻ってきた。そしてそのまま現在に至る。)

おっと脱線。バレー部に入部をしたわけであるが、私たちが入るまで、部員が4人しかおらず、ロクに試合にも出れなかった超弱小バレー部だった。というわけで、バレー経験ゼロなのにいきなりレギュラー。高総体の第一試合で、0−25、0−25の気持ちよいぐらいのストレート負けを喫する。

高校の時の記憶がほとんどない。

が。高一の時の席替えがきっかけで、なんの前触れもなく、対人恐怖症に陥る。自分の視界に他人が入るとどうにも緊張し落ち着かなくなってしまう。

症状が目に見えるものでもないし。どうしてこんなにも突然おかしくなったのか!?と、最初の頃は絶望にうちひしがれて、生きるのがしんどいなぁと感じることも。そんな自分が欠陥物で、恥ずかしくて、友達にはおいそれとこのことを告白できなかった。むしろ、「絶対にばれたくはない!」ということで、常に明るく、素敵な自分を装うことに必死だった。

この病のせいで結婚はできないだろうなぁとか。色々将来について悲観する。

そして、

「これはわたしの内側から現れている苦しみにすぎず、外側はなんと恵まれていることよ。これはわたしが作り出している苦しみで、誰かに苦しめられているわけではないのだから、その気になれば、自分で終わらせることができるのだ。何て有難いのだ。だから、大丈夫だ。安心しよう。全て自分で自分を苦しめているに過ぎないのだ!」

と、幾度となく言い聞かせてきた。

現に、わたしは本当に人に恵まれて生きてきた。そして、やりたいと思ったことは、何が何でもやってきたし、本当に恵まれた環境で生きてきたのだ。

だから、そんな恵まれた環境との帳尻合わせとして、内面の苦しみが起きているのではないか、なんて自分で自分を分析してみたりもした。こんなに恵まれているのだから、こんなことぐらいで弱音を吐いてはいけない、と。

というわけで、ここから始まる葛藤がなければ、「オモシロ美人のすすめ」は生まれていないだろうし、今の自分はいないのだろうと思う。

最近になって、やはり、人生とは何事にも後から振り返った時に、「そういうことね」と腑に落ちるようなシナリオとなっていると痛感する。だからこそ、人と比べるなんてナンセンスで、自分だからこそ、自分にしか発することのできないメッセージや、為すべき使命があるのだ、とも、紆余曲折を経て、今となっては素直に感じられるのである。

と、いうわけで、あれよあれよと高校卒業。(というかあまり記憶がない)

付属の大学へ進学する。

 

長くなりすぎたので、「わたしの半生」後編へ続きます。

この後は、新卒で入った会社を辞めてバンクーバーへワーホリで行ったり、念願の航空会社へ入社するために奮闘したり、一転、不動産会社に入社したり、ブログを書き始めることになったり・・・と、さらにとっちらかってまいります。

[ わたしの半生。前編 ]わたしの半生。2017/02/26 22:20