ちっぽけなわたしたちは。

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ご機嫌麗しゅう。
オモシロ美人研究家Chacoである。

「木を見て森を見ず」ということわざがある。

これは、目の前に立派なケヤキの木がそびえ立っていて、

「これはなんて立派な木なのだ。ほらさわってごらん。この樹皮を。
このささくれだちながらも、朴訥とした感じは、まるで高倉健のように
不器用ながらも、実直な生き方をしてきた表れだろう。誇り高き木だよ。この木は。
ほら、森も難しい顔していないでさ、この木のすごさを一緒に感じようぜ!」

森:「なんだよ、さっきから、口を開けば「木、木、木」って。「木」ばっかりじゃないか!
お前は一体「木」のなんなんだよ。今日俺たち、久しぶりに会えたんだぜ?
それなのに、お前は「木」ばっかり見てさ。どうせ俺のことなんてどうでもいいんだろう。
もういいよ。お前はずっと俺(森)じゃなくて「木」ばっかり見てろよ!」
(森、不貞腐れて、その場を去る。)

「森!ちょ、待てよ!あーぁ。確かにおれ、「木」にばかり気を取られて、
久しぶりに会えた森をないがしろにしちゃったなぁ…。森には悪いことした。
おれ、木を見て森を見てなかった。これからはもっとちゃんと森のことも見ていかないとな。」

ーー完・木を見て森を見ずーー

おそらく、諸君はこのことわざは、上記のように
「あなたのまわりにいる森という人物をないがしろにせずちゃんと見てあげよう。
森という名の人物は大抵デリケートなのである。」
という教訓を表したことわざだったと勘違いして生きてきたかもしれない。

だからこそ、学校や会社でまわりに「森」という人物がいた場合、
大いに気を遣って生きてきただろう。

「いやー。だって、おれ「林」だけど、「木」が二つしかないですからね!
やっぱり、「木」が三つの「森」さんにはどうやったって敵わないですよ〜!」

などと、時にはおべっかを言い、当の森はご満悦である。

そんな、今まで森に気を使ってきた諸君、そして、気を使ってもらってきた「森」という姓を持つ諸君に
悲報である。
実は、この「木を見て森を見ず」ということわざは、「森」という人物の繊細さをうたい、もっと「森」を
大事にせよと戒めているのではなく、「物事の一部に気を取られて、全体を見渡すことができない」という状態を表しているものなのだ。

このことわざの真の意味を知り、誤解をしていた諸君、そして当の森たちもさぞ呆然としていることだろう。
しかしながら、森を大事にすることは決して悪いことではない。ただ、森を大事にするならば、
「林」も「小林」も「中林」も「大林」も、なんなら「中森」も、そして「小森」ですら、大事にしてあげてほしい。
漢字を構成する木の数や、森の大小で人を差別してはいけないのだ。

さて、この「木を見て森を見ず」の本当の意味であるが
「自分なんかがこんなことをやりたいと言ったり、実際やってみたら、まわりのひとがどう思うかな…」
という心理によって何かへの挑戦をなかなかできない諸君にぜひ投げかけたいのだ。

「自分なんかが…」と言っている諸君は自分に自信がなく、自分なんか全然大したことないと思っているのだろう。

しかしながら、安心してほしい。
諸君は、十分、自分をすごいと思っているし、影響力があると思っているのだ。
そう思っているから、まわりの目が気になるのである。

少々、辛辣なことを言おう。
あなたが何をに挑戦しようと、何かを失敗しようと、まわりのひとは痛くもかゆくもない。
正直、どうでも良いのである。
それほどまでに、あなたは、すごくもなければ、影響力もないのである。

以前の記事、「飽きっぽいは最強の強み。」でもお話ししたが
わたしは今まで色々なことに手を出したが、長続きしなかった。

その度、正直言うとまわりの目が気になっていた。
「また、なんか違うの始めたんだねー?
え、この前のあれはどうしたの?もうやめたの?飽きるの早いな〜笑」
などと言われると、全くその本人には嫌味がない場合でも
「あぁ、わたしって次から次へと興味の赴くままに…。
腰軽なヤツって思われてるのだろうな…。」
などと自身の継続力のなさによく落ち込んだものだ。

でも、今となって思うのは、そうやって、何かわたしが挑戦したり
それを投げ出したりするたびに、何かそのことについて、良きにつけ悪しきにつけ
感想を伝えてきてくれる人物というのは、そんなすごくもなければ、影響力もない私に
「関心」を寄せてくれている証拠なのだ、と。

基本的には、自分は自分の人生に一生懸命だし、自分がなんだかんだ言って一番かわいい。

それなのに、もし仮に、それが何かネガティブなことであっても、あなたのに興味を持ち
あなたの行動にそのひとなりの意見を寄せてくれているのだ。自分のことで忙しいだろうに。

と、いうことは、だ。

「わたしなんかが、なにかやったら、まわりにどう思われるかが恐くて、一歩を踏み出せない」

→安心してください。まわりはあなたのこと、正直どうでもいいですよ。

「でも、わたしがやることに、いちいち文句を言ったり、嫌味を言ってくるひとがいる」

→安心してください。そのひとはあなたのことが気になって気になってしょうがないのです。
 
こういうことだ。

だから、あなたが何か真新しいことをやろうとしても、あなたが自分のことでいっぱいいっぱいのように
まわりのひとも自分のことに一生懸命なので、そもそも気に留める余裕がない。
それでも何かを言ってくるひとはあなたのことが気になってしょうがなく、もしかしたら、
羨ましい気持ちだったり、寂しい気持ちがその言葉の裏には込められているかもしれない。

だから、何かを言ってくる外野が多いひとは、あなたに興味・関心がある潜在的なファンが多くいるというわけだ。
とても心強いではないか!

このことに関連して、芸能人のスキャンダルや、様々なうわさに、まるで自分のことかと思うほどに、
怒りや口汚い言葉で罵るネット上の人々を見ると、
「日常で色々忙しいだろうに、相当この芸能人のことが(本人は気がついてないだろうが)好きなんだろうなぁ…。」
などと思ってしまうのはわたしだけであろうか。

そう考えると、どうだろう?
与えられた短しこの命。自分のやりたいようにやったもの勝ち
と思えないだろうか。

わたしも目の前の小さなことに気を取られて、うじうじ悩んでしまうことが
よくあるのだが、そんな時は無限の宇宙の大きさに思いをはせるのである。

言葉では到底表すことができない、宇宙の神秘かつ壮大なスケールの前では
わたしたち人間なんて、いないも同然なほどにちっぽけなものだ。

宇宙を目の前にすると、わたしたちの小さな世界で「すごい」と定義されている
どんなにすごいとされているひとだって、ちっぽけ。天才も凡人もみんな同じなのだ。

だとしたら、何に遠慮することがあるだろう。

あなたは壮大なことに挑戦してみようとしているかもしれないが
宇宙から見たら、鼻で笑われてしまうほどに、ちっぽけなことなのである。

だから、ちっぽけなわたしたちが、ちっぽけなことをしようとしていて
それを見たちっぽけなひとたちが、ちっぽけなことを言ってきたとしても
所詮、やることも、やるひとも、見るひとも、宇宙からしたら所詮ちっぽけ
でお遊びにしか映らないのだから、ちっぽけなことで悩むことなく
ただやってみれば良いのである。

どちらにせよ、ちっぽけなんだから。


実は、今回の投稿は、人生を大きく変えたいと考えている、誰でもないわたし自身への

叱咤であり、激励の手紙であった。
公のメディアを使って、私信を披露してしまい、誠に申し訳ない所存である。

しかしながら、ちっぽけなわたしがちっぽけな発信をしても、宇宙から見たら
把握できないほどのちっぽけさなので、これからも大いなるちっぽけな挑戦を
続けてまいりたいと思う。

あ、『「森」を大事にするぐらいなら、「大森」はもっと大事にしなければ!』という発想はいけないぞ。
宇宙から見たら、たとえ「大森」であってもちっぽけだし、森の大小で差別してはいけないのだ。


◉オモシロ美人の今日のコトバ◉

宇宙に思いをはせ、とりまく全てが「ちっぽけ」であることを常に意識せよ。

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[ ちっぽけなわたしたちは。 ]オモシロ美人哲学。,未分類2016/03/15 21:39