自分を笑うな。


「幸せ」って一体なんなのだろうと、えらく漠然とした問いについて、最近は思案している。

現在36歳なのだけれど、そんなことについてぼっーっと思いを巡らせているひまがあれば、結婚相手のひとりやふたりとっとと見つけてこいとでも言ってやりたい思いを秘めつつ、うちの家族は「もうあの子に何か言ってもどうせ聞きやしないからしょうがない」といった感じで、信じて(もらえているのかはさだかではない)放っておいてもらえているのは、この年齢にしてもなお自由奔放な娘としてありがたい。

最近、この奔放さに拍車がかかっている感が否めない。

自分への自信のなさから、その欠落感を埋めるため(当時はそんなことにすら気づいていなかったけれど)「ひとかどの人間になる!」ことを目標に、色々なことに挑戦しながらも、最後はエネルギーが枯渇して、ふぬけ状態になって、挙句、35歳で銀座に飛び込むとか、周りから、本当にこいつは何をしたいのだろう…と思われても仕方ない。事実、思われていると思う。

色々な出来事があったにもかかわらず、それでもケロっと、のうのうと元気にやれている自分の図太さというか、この懲りない感じは、ある意味「尋常ではない」と、弱い弱いと思っていたが、最近気付き始めた自分の底知れぬ「しぶとさ」に驚いたり、呆れたりしている日々である。

そして、この「奔放」という言葉について調べていたら、「華麗奔放」という言葉と出会った。

きわめてはなやかで思うままに振る舞うこと、という意味。

思うがままに常識や規範にとらわれず生きる、「奔放」という意味の言葉に、「華麗」がのっかっており、なんだか好きだなって思った。単なる奔放もいいのだけれど、「奔放」という言葉だけだと、その人個人の生き方の話にただ帰結するのみである。

「わたしは、とにかく自由である!以上。」みたいな。

しかしながら、そこに「華々しさ」や「麗しさ」という意味が加わることで、人になんらかの作用をもたらすという客観的な魅力がプラスされ、「あんな変わった生き方を自由にしているくせに、なんだか楽しそうだなぁあいつ」と思ってもらえる生き様を表していなかなか魅力的な四字熟語ではないか、と思った。

ここまで来たら(アラフォー?)、「華麗奔放」に生きたいし、華麗奔放に生きていくひとがもっともっと増えていって、この国が長い間苛まれてきた閉塞感が緩んでいったら、もっと楽に、自然な自分のままに生きていけるひとが増えるだろうな、なんていうことも感じる。

 

話は戻って、わたしが勝手に考察する「幸せ」について長々と語り始めようと思う。

 

たとえば、幸せを目指し、何かを手に入れることを目標として行動し、ようやくその「何か」を手にしても、今度はそれを失う恐れが常につきまとう。

例えば「成功」。

ビジネスやその他様々な分野において、何かを得ることを目標にして、日々努力をする。その道程には喜怒哀楽がつきまとうだろう。それはとても深みのある道程であり、人生の縮図とも言える。

しかしながら、その「成功」とやらを手にした後に長く続いていく「物語」を、わたしたちはどうやって紡いでいくべきなのか。

世に多くある「成功法則」や「恋愛指南書」などは、「目標とする結果を手にするための技術や心構え、考え方」が綴られているが、その後その「成功」を成したの際に感じられた「幸福感」を、わたしたちがどうしても手にしたかった「喜び」を、自分自身の中でどう処理し、受け止め、どのように「維持」していくべきなのかが語られているものは、少ないのかもしれない。

ある「結果」を得られれば、「幸せ」になれる。

ある「モノ・お金」が手に入れば、「幸せ」になれる。

このようなわたしたちの中に存在する当たり前の「価値観」を、少しづつ広げていく必要があると思うのだ。

 

ひとは死にゆく。

ものは壊れる。

時代は移り変わる。

 

何かを手にするということ、誰かと出会うということは、それとの、別れがあり、それを失うということを暗に示唆している。

悲しいかな、出会うことは別れるということ。手にするということは失うということ。人生とは、その繰り返しのように思う。

なんてやるせなく、哀しく、美しいのだろう。

そして、それは、わたしたちの「生」についても同様である。

わたしは特にそのような能力も知識もないので、「輪廻転生」とか、「肉体は滅びても魂は生き続ける」という概念に対して、わかるようなわからないような曖昧な態度なのだが、現実問題として、誰か大切なひとの心臓が止まり、息絶え、もう二度と、そのひとと会話をしたり、物理的に触れ合ったりすることができないのは、いくら魂はそばにいてくれるのかもしれないとはいえ、とんでもなく寂しく悲しいと思うのが、人情ではないだろうか。

だとしたら、自分自信の「生」についても、両親の精子と卵子が受精し、それが母親の胎内に宿った時から、心臓が最期、その営みを終えるまで、わたしたちはこの肉体に、多大にお世話になり続けるわけだけれど、そんな旧知の仲ともいえる己の肉体ともお別れの日が、いつかやって来る。

そこでやはりわたし自身、「幸せ」とは、自分の外側から得るものではなく、この物質世界において自分自身と一番長く付き合う「自分」のうちに生み出す他ないのでは、という、誰もが「もう聞き飽きたぜ!」と言い放ちたくなるような結論に、改めて至るというわけである。

 

少なからず、自分のうちに生み出した「幸せ」については、自分が求め続ける限りは、この肉体が滅びるその瞬間まで、宿し続けることができる。

そして、その幸せとは、「自分で自分のあり方を定義し、それをまっとうする」ということに他ならないのでは、と最近は感じているのだ。

 

わたしたちは、他人から「承認されたい」と願う。

わたしたちは、他人から「愛されたい」と願う。

 

そして、そのために、奔走する。

 

それは、人間として当たり前の欲求であり、だれかに承認してもらえた時の、誇らしい気持ち、だれかに愛された時の喜びや安心感は、きっと、生きる上で、なくてはならないもので、それがあるからこそ、日々の生活に「モチベーション」という名のエネルギーが生まれる。

このエネルギーは、自分一人では生み出せるものではなく、他者の存在があって初めて、生み出せるものである。

だからこそ、「承認」と「愛される」ことを目標にしてしまうと、その後に続く物語が、不安定なものとなってしまうのだ。

なぜなら、他人が必要だから。自分ひとりでは成し得ない類の「幸せ」だから。

 

だからこそ、

 

自分はこう生きる。

自分はこうある。

自分はこれをする。

自分はこれをしない。

 

たとえそれが成功しなくても、たとえそれを手にすることができなくて、だれかに笑われても、だれかに後ろ指を指されても、決して、「自分は自分を笑わない」という覚悟。

自分のあり方をまっとうした自分を、自分だけは褒め称えるのだ、という信念。

 

自分の人生、そして自分が取り組むべき課題や挑戦に、常識や慣習、まわりの一般的な意見に流されることなく、自らの態度を自分で決め、それをまっとうする。

 

それこそが、自分ひとりで生み出せて、なおかつ持続可能な「幸せ」なのではないかと思うのだ。

 

わたしは長らく、受動的に人生を生きてきた。

ひとからの承認ばかりを求めていたし、ひとから愛されることばかりを望んで生きてきた。

 

前回の記事(どうせ愛されてるし。)にも書いたが、今までの人生は「どうせ愛されていない前提」で生きてきたため、常にどこか「自分なんかが生きていていいのか、自分なんかがこの場所にいていいのか」という、無意識の負の感情に脅かされてきた感覚があったし、今も気をぬくと簡単にその不安が顔を出す。

わたしは、自分の勘違いが大きかったが、やはり幼い頃になんらかのトラウマや、いじめ等で、深い傷を負ったひとは、おそらく程度の差こそあれ、同じような感覚を日々抱きながら、窮屈な思いをして、この現代社会でもはや瀕死の状態で戦っているひとも多くいると思う。

それが進行していわゆる精神疾患を患うひとも多くいる。

やはり、わたし含むそのような人々は、そもそも「見捨てられる恐怖」が、非常に大きいのだ。

だからこそ、他人からの承認が常に必要だし、だからこそだれかからの愛情が常に必要と感じてしまう。「自分が生きていていいのか」という恐れが根底にあるため、他人から必要とされることで、自分自身の存在価値をようやく見いだすことができる。

だからこそ、「結果」に執着してしまう。

そして、「結果」とは、コントロール不能な「他人」がもたらしてくれるものに他ならない。

だから、ずっとずっと、辛いのだ。

自分で自分の「幸せ」をコントロールできないのだから。

 

かくいうわたしもそうやって常に生きてきた。

ビジネスで成功したいと思ったのも、ひとからの承認によって自分の存在価値を見出したかったし、恋愛においても基本的に好きなひとがあまりできない上に、「いいな」と思っても、なにかと理由をつけて相手の出方を待ち、相手の好意を感じられてから、ようやく気持ちを出せると言った具合であった。そしてその後も相手に「愛されているか」ばかりを気にして、傷つかないよう傷つかないよう、曖昧な態度で逃げてばかりいた。

 

とにかく、傷つくのが恐かったのである。

 

しかしながら、様々な経験と出来事を経て、

「やりたいもんはやりたい」

「やりたくないことはやりたくない」

「好きなものは好き」

「嫌なものは嫌」

これらの自分の価値観がコントラストを帯びて浮き彫りになってきて、それを貫くことこそ、自分の人生の喜びであり、そこには、自分がずっと必要としてきた「他者」は関係ないのでは、という答えを、ようやく自分なりに導き出すことができたのである。

 

「やりたいこと」、もしくは、「ほしいもの」があって、うまくいかないかもしれないけれど、それでもやりたい、挑戦したいと思うなら、最悪の事態(=うまくいかない)ことを想定して、たとえそうなったとしても、自分が自分を笑わない、自分を責めない、たとえ四面楚歌になっても、よくやった!と、自分だけは自分をねぎらうことができると確信できるならば、もはやもう結果なんてどうでもいいのである。

その段階で、誰が何を言おうと、わたしたちの人生は、成功だ。

それに向かう「自分のあり方」を貫いたあなたの美しさ、その華麗な奔放さは、きっと誰かを勇気付けるだろう。

 

だからこそ、能動的に、物事に挑戦していく。

だからこそ、能動的に、誰かを愛していく。

だからこそ、能動的に、やらないことをやらないでいく。

だからこそ、能動的に、自分を貫いていく。

 

このような強い気持ちを、もしかしたら、自分の中に宿せる力があるのかもしれない…。そんなことに気がついた時に、今まで、常に受動的に生きてきた自分自身の内側から、感じたことのない「幸せ」らしきものがこみ上げてきた。

 

どのような結果になっても、自分だけは自分を笑わない。

 

その態度で生きることが、「自分を愛する」ということなのかもしれない。

 

そうして、自分を愛することを貫くことができれば、きっと本当の意味において、傷つくことなんてないのかもしれない。

 

「自分を愛せなければ、他人を愛することができない。」

このようなフレーズを、よく耳にすることがあるけれど、正直、本当の意味で理解ができていなかった。

それはずっと、自分を愛することを、何かの条件と引き換えに、成し遂げようとしていたからだろう。

自分を愛してくれることを引き換えに、ひとを愛していたからだろう。

常に、後出しジャンケンだったのだ。

 

しかしながら、今、「もしかして幸せって、こういうことなのだろうか」と、結果をおそれずに、能動的に物事にあたっていこうという覚悟を決めた今、自分の内側から溢れ出す、強くしなやかな、初めましてのこの「キモチ」の手触りを、おっかなびっくりながら確かめている。

わたし自身、まだまだ手探りの段階である。

ただ、この感覚をたぐり寄せた先に、揺るぎなく持続可能な「幸せ」があるのだと信じている。

今はこの手綱をしっかりと握り締めつつ、時に、逆戻りしたり、やっぱり不安になったりしながらも(だって人間だもの)、少しづづ、育んでいけたら、と、今はあまり先のことを考えずに、楽観的に思っている。

 

そして、以前に比べ、そんな少し強くなったかもしれない自分を、少し好きになれてきたことに、ほっこりと喜びを感じている今日この頃である。

 

最後に、繰り返しになってしまうが、いつも悲観的だった自分自身の考え方が前向きになってきたのは、やはり、フィジカルおよびメンタルが安定してきたことが大きいように思う。

というわけで、人生に対して、能動的に生きていくためには、まずもってベースが整わない限りは、自分を貫く覚悟を持つこと、また、自分の「好き・嫌い」の判断すら難しいようにも思う。

なので、まずは、自分を整えよう。

いつも身体がしんどかったり、辛い思いに苛まれてしまう人は、能動的に、誰がなんと言おうと、「自分を優先すること」に取り組んでもらいたい。そして、そんな自分を絶対に責めない。そんな自分を笑わない覚悟を持とう。

思いっきり、休もう。

思いっきり、自分に我儘を許してあげよう。

わたしもまだまだ「健康」について研究していく。

自分を満たすことが、回り回って、将来への他者への循環となっていくはずだ。

非常に繊細で、弱いと思うひとが、自らの力でより良い状態になっていく姿は、同じく苦しむひとびとの「光」となるはずだし、その使命があるように思う。

もし、不安にさいなまれたひとと出会ったときに、表面的な部分でその人を排除したり、ないがしろにすることなく、そのひとの奥にある「光」を見出すことができるのは、きちんと不安を体験し、きちんと辛さを体験したひとの「専売特許」ではないかとも思うのだ。

そして、まずは体調面を整える方が、精神面にもダイレクトに効果を実感できると思うので、ぜひ自分に合った方法を模索して、身体と心を休めていただきたい。わたしは自分に必要な栄養を摂ることで、効果を実感できた。

というわけで、最近は本格的に栄養の勉強でもしようかと目論んでいる。

(・・・あーあ、それにしても、えらく真面目に語っちゃった。)

というわけで、次回は大変にくだらないギャグで埋め尽くしてやるぞこのやろーとか、そんなことを目論みつつ、長くなったので、ここいらで筆を置こうと思う。

 

 

 

 

[ 自分を笑うな。 ]心の話。2017/08/12 22:23