あなたは「いるだけで」、いい。

 

わたしは、気がついてしまった。

 

いや、正確に言うと、薄々気がついていたのだけれども、ずっと認められず、認めたくなくて、見て見ぬ振りをしてきた…というとかもしれません。

 

別に「起業」とかしたいわけではなかった、ということを。

昨年一年間、ブログ始めたり、電子書籍出したり、セミナーやってみたり、ビジネスについて学んだり、何やら色々やってみて、先日、フォトセッションをリリースしたのだけれども、リリースした途端に、確信しました。

「わたし、これ、やりたいわけではないかも・・・」

と。

 

***

 

正確に言うと、お金は好きです。

普通にそれは欲しい。

お洒落もしたいし、旅行にも行きたいし、迷惑かけまくっている家族にお礼もしたい。

あと、誤解なきようお伝えしますが、写真を撮るのも好きです。一対一で、お話しするのも好き。

 

 

しかしながら、ビジネスをする上で、価値提供をしないと、そして、提供できる価値をあらかじめ提示しないと、ひとは興味を示さないし、お金はいただけないのは、もはや明白です。揺るぎない真実。

 

だとしたら、その価値提供の部分を考えて、わたしはこんな価値をあなたに提供できますよ〜と、未来永劫、ずっと発信していかねばならないのか・・・となり、途方に暮れてしまい、この部分が、わたしには「無理だ!」となってしまったのです。

 

書きたいことを書きたい!と、そこに一点の曇りや、濁りを混じらせなくない。と思うのです。

 

要は、「子供」なのです。

 

ビジネスをする上では、他人目線が必要と言われる。

こういう発信する上でも、他者目線に立って書きなさいと言われる。

 

しかしながら、わたし、ぶっちゃけてしまうと、「他人」に興味なくって\(^o^)/

「もう、なんでもいいじゃない!」と思うのです。

例えば、合コン的な飲み会などに行った帰りに(最近はもうさすがに行かないが)、友達に「あのひと既婚者だったねー!指輪してた。」と言われても、「へ?そうなの?」と言った具合。

会社などでも、「あのひと結婚してますね!」と、来客が薬指に指輪をしていた、と後輩に言われても、「あ、そうだった?」と言い、呆れられること数知れず。

 

いまだかつて男性の薬指に着目したことがない。

もちろん、薬指の指輪=結婚指輪という知識はあるし、きっと視界には入ってはいるのだろうが、その考えに結びつかない=全く興味がない、のだろう。たとえ、「いいな」と思える男性だとしても、「薬指を見る」という行為にはきっと及ばない。

 

(それは、薬指に指輪をしていようが、いまいが、もはやわたしの好きにはなんら作用を及ぼさないという、ある種危険な思想によるものなのかもしれないけれど。わ!!)

 

あるいは、友達と歩いていて「今すれちがったひとかっこいいね」とか、「今のひと◯◯に似てない?」と言われても、「え?見てなかった」となる。

もちろん、前を向いて歩いているので、視界には入っているだろうが、「着目」していないのである。

 

そしてもちろん、他人の惚れた腫れたの話も興味がない。そのひとがどんな恋愛をしていようが、そのひとがやりたいようにやればいいと思う。

他人の生き方然り。

どうでもいいし、なんでもいいと思う。

結局、「なんでも大丈夫なのだ」、という思いが根底にあるのだと思う。

 

***

ぼーっとしている、と思われていると思う。

 

よく、回転ドアに挟まれたり、ものを落としたり、コップを倒したりする。周りも「またやった!」と言いながら、初老に接するかのごとく、かいがいしく介助してくれる。有難いかぎり。

 

しかしながら、違うのです。

ボーッと、何も考えていないわけではなく、むしろ常に考えているのです。

目の前のこととは、関係ないことを!

目の前に繰り広げられている状況を処理するのではなく、ひとり、自分の世界にどっぷりと入り込んでしまう。

わたしの場合には、ブログに書くことを前提に、「ブログにこういうことを書こう」という意識もないままに、ひとり脳内会話が繰り広げられる。

その間には、また、思考はあっちゃこっちゃ飛ぶ。

時には、隣を一緒に歩く友人がすれちがうひとをかっこいいと思っている瞬間に、わたしは、前を向きながらも、「この子がさっき言ったことは、本当はこういう意味だったのかしら・・・」と、目の前のかっこいいとされる男性を視界に入れながらも、隣を歩く子の先ほどの発言の意図に想いを馳せたり。

 

もう、こう見えて、常に脳内が大忙しなのだ。

 

というわけで、フォトセッションの告知文も、「あなた」を主語に書いてみたのだけれども、まーしょうもないなぁ、と。本当に恥ずかしいわけですよ。あなたってだれ?あなた・・・もしかして穴田さん?それは何県何市何町、何番地にお住まいの穴田さんですか?

 

こんな感じで自分につっこみいれながら、自分の中で、得体もしれない「穴田」さんに向けて首を傾げながら書くわけだから、どうにもぎこちないし、意味がわからないし、エネルギーものらない。

もうね、大人の中で共通する「暗黙の了解」とやらを、素直に受け入れられないのです。筋金入りの「子供」なのだ。もう観念しようと思います。

 

基本的に、撮影する時に何も考えていない、無意識で撮っているし、文章ものってくると、無意識で書いていると思う。(だから長くなってしまう)

 

無意識で、取り組んで、それで、相手が喜んでくれる。なぜか褒めてくれる。わたしは楽しんでやっているだけなのに。だから、写真を褒めてもらっても、ブログ読んで面白かったと言われても、「お、恐れ入ります・・・」とどこか他人事になってしまう。

 

そんな具合だから、「わたしが写真を撮ると、あなたこうなります!アナタモットシアワセニナルヨ!」とか、書けない。これが、わたしがセールスレターを書けない理由。

 

あとは、無意識で書いたり、撮ったりしているから、「文章の書き方教えてください」とか「どうすれば良い写真撮れるの?」と聞かれても、「・・・わかりません!無意識です!」となる。だから、誰かに「やり方」を教える立場にもなれないし、なれるとも思わない。

 

はぁ。

 

そんなわたしだけれど、今まで、常に価値提供しなきゃと思って生きてきました。

たとえば、友人といても、自分が気がつかないことをさっとやってくれたり、何か粋なプレゼントを用意してくれたり、わたしがひとり自分の中にどっぷりはまっている時に、素敵な行動をとって、まわりを温かな気持ちにさせてくれるひとを見ると、「わ、わたしも何かひとのためになるように頑張らなきゃ!」と、自分の中にどっぷりはまろうとする意識を阻み、さらに頭を働かせるように頑張る。

 

例えば、会社の飲み会の時。近くのひとのコップが空になってはいないか、そういう時に「次何頼みます?」と、さっとメニューを差し出せるようにしよう!と一杯目は目を皿のようにして、目の前のひとの話に耳をかたけつつも、グラスの減り具合に注意を払うのだけれど、お酒が入ってきて、時間が過ぎていくと、もうダメ。目の前の話を最大限に楽しむことに集中してしまい、どんぴしゃりな合いの手を入れるのだ!ということに意識を取られており、もはやグラスに向ける意識なんてゼロに等しくなってしまっている。

 

そして、ふとした瞬間に空のグラスに気がつき、「まずい!!いつから空だったのだ!」と、早くメニューを差し出せばいいのに、自分の記憶をたどり、空になってから経過した時間の総計を算出しようとする。

 

面倒臭いでしょ?笑

おそらく、シンプルなものの考え方ができるひとには、信じがたい思考回路だと思います。

 

でも、おそらく、こうやって実はひとり空回りながら、頑張ってきたひと、うまくスマートにやれないで、そんな自分を他人と比較して、責めてきたひとって多いと思う。

勝手ながらに、お互い、「お疲れ様だったね」って、ハグをして、ねぎらいたい気持ちです。

 

***

 

つい最近、とあるひとに、「あなたはいるだけで、まわりを癒しているのだよ」と言ってもらったことがあった。

 

わたしは不覚にも泣いてしまった。

 

「わ、わ、わ、わたし、いるだけでいいのですか?」

 

って。

 

もちろん、そのひとが、ただそう言ってくれただけで、もしかしたら、わたしをただ励ましてくれる前提で、深い意味がなかったのかもしれない。そして、そのひとだけがそう思っていて、他のひとには、単なる苛立ちを与えているだけかもしれない。

 

それでも、とても救われた気持ちになりました。

 

そして、気がついたのは、自分が自分に「価値を提供しなければ、お前に生きている価値はない」というふうに、突き放していた、ということ。

 

自分で自分に対してそのような見方をしていれば、ひとからも、そのように思われていると、自動的に考えてしまうだろう。だから、価値を提供しないと、誰かを喜ばせないとダメなのだろうと、無意識に自分を縛りつけてきた。きっとそんなこと思われていなかっただろうに。(わからない。思われていたのかな。)

 

***

ひとりひとりが、「わたしはいるだけでいい」と思えたら。

 

そうしたら、自分以外のひとりひとりに対して、「あなたがいてくれるだけでいいよ」と、なんの疑いもなく思えるのだろう。

 

そのひとの存在、息遣い、微笑み、悲しみ、苦しみ、憎しみ、苛立ち、喜び。そのひとから発せられるすべての営みそのものを、「それでいいのだよ」と、全肯定できたら。

 

なんていう生きやすい世の中になるのだろう。

 

そのためには、まずは、自分。

 

自分の存在、そのものを、全肯定する。

いるだけで、いい、と心の底から、自分という存在を賛美する。

 

すべては、そこから、始まる。

 

 

というわけで、これからは、自分を溺愛していこうと思います。

 

自分の書きたいことを、一点の濁りもなく、自分視点だろうが、独り善がりだろうが、書いていく。それがわたしにとっての、そして読んでくださっている方、応援してくださっている方への最大の誠意。

ビジネスにならなくてもいい。もちろん、なったら嬉しいけれど。

 

今更ながら、です。

 

「いるだけでいい」という大前提で、その上で、何かひとにしてあげたいと思ったことを、素直に、自然にしていきたいと思う。

 

そして、これを読んで、自分に価値はないと、絶望に打ちひしがれているひと、あなたも「いるだけでいいのだよ」と伝えたい。

 

あなたが自分の存在そのものを認めることが、まわりのひとの存在を丸ごと肯定することに繋がり、それこそが、まわりのひとを幸せにすることなのだから。(この「あなた」は、素直に書けた!)

 

というわけで、わたしの人生いよいよオモシロくなってきました!

 

今月末で、ひょんなことから会社を辞めることとなるのですが、ビジネスに精を出さないとなると、この先どうなるのでしょう。

 

夜の銀座に挑もうか。そして、できる限りの自由な時間を確保して、思いのままにブログを書く。

 

この歳だし、ひとのグラスが空になっても気がつかない!とか先ほど豪語しておいて、こんなこと考える自分。もはやこんな自分が面白くてしょうがない。

 

採用されなかったらそれも、ネタとなる。

どのような生き方をしても、それも、ネタとなる。

 

実は、みんなが芸人で、起こることがすべて「ネタ」で、どれだけ、その人生という名のコントに「笑い」を盛り込めたら・・・そして、ひとのコントを腹を抱えて笑いあえたら、って考えると、もはや、「なんでもあり」だと思う。

 

いや、むしろ、「なんでも来い」って思うのだ。

 

 だから、どうなっても、大丈夫。

 

自分が自分であることを放棄しない限り、自分に対して正直で、まっさらである限り、なんだか大丈夫であると思えてならない。

(それでも、この考えに至るまで、数ヶ月を要しました。)

 

「死」を含めて、それすらも、大丈夫だと、思えてならない。(間違っても死なないけどね。しぶとく生きてやろうと思うけどね。)

 

 

だから、あなたも、「大丈夫」なのである。

 

さぁ、今日も芸人として、大いにスベっていきましょう。

そして、雛壇から、まわりのひとの渾身のネタを大笑いしてあげようではないですか。

 

Branding Photo Session

 

 

[ あなたは「いるだけで」、いい。 ]自分を信じること。2017/03/19 14:28