Gu-Guガンボウ。

 

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こんにちは。
Chacoです。

今回は、他人からの言葉で一喜一憂して、自分の考えがブレたり、ひとの目を気にして右往左往してしまい、結局何をしたいのかわからなくなってしまうひとに向けて、お送りしたいと思う。

結論から言おう。

上記のようなことで、悩むひとは、

「自分の願望をわかっていない」。

以上。ただそれだけだ。


弱気な性格が問題なのではない。
自信がないからでもない。

言うなれば、

「No-No ガンボウ」

な状態なのだ!

わたしたちが、ひとの言葉に惑うことなく、自分のやりたいことをのびのびと自分の気持ちに従って行動できるようになるために、目指すは、自分の願望をわかっている「Gu-Gu ガンボウ」な状態であり、「No-No ガンボウ」な状態では、それはなかなか難しい。

いや、願望がわかっていないのだから、「No-Noガンボウ」ないし、「Dont-Knowガンボウ」と言ってもいいかもしれない。

・・・ん?

さっきから、Gu-Guだの、ガンボウだの言ってますが、それって何ですか?って?

・・・ま・さ・か!!

あなたたちは、あの一斉を風靡した「Gu-Gu ガンモ」というアニメ化された漫画をご存じないのか!?

佃家のに突如現れた、人語を解する、スニーカーを履いた、ニワトリもどきのずんぐりむっくりした生物。

おでんにちなみ、「ニワトリもどき」だから、「ガンモ(ドキ)」と名付けられ、「半平太」や「つくね」らとともに繰り広げるドタバタコメディに登場する鳥類風のキャラクターである。

1982年から連載開始というわけだから、約35年前の漫画ではあるが、夕方の再放送等でお目にかかったひとも多いはず。

ちなみにガンモは、コーヒーが大好きで、コーヒーを飲むと、人間がアルコールを摂取した時のように酔っ払ってしまうのである。

本日もご多分にもれずスタバでコーヒーを飲みながらこのブログを書いている私がもし仮にガンモだったら、もはやへべれけ状態になりながらこのブログをタイピングしていることだろう。

そして「これが本当の千鳥足」と言わんばかりに、頭にネクタイ巻いて、土産の寿司包みを片手につまみながら、ふらふらと家路に着くことだろう。

今日ばかりはガンモでなくてよかったと、胸をなで下ろすばかりである。

・・・いや、こんなくだらないことを世に向けて発表できるなんて、ガンモのようにわたしもコーヒーを飲んだら酔っ払う性質を持っているのかもしれない。酩酊状態だからこそこんな変態的なブログを書けるのやもしれぬ・・・。

あぁ酔っ払い特有の長い長い愚痴や説教だぜやれやれ、ぐらいの心持ちで、このブログにお付き合いいただけると幸いである。

さて、話をガンモから、本題に戻そう。(ガンモから本題ってどういうことだと思う)

自分の考えや行動がぶれるひとが、自分の願望がわかっていない、ということ。

どうして、今回、このような話をするかというと、他でもないわたし自身が、ここ最近、様々なひとからのアドバイス、叱咤激励、SNSの発信いちいちひとつひとつに、過敏に反応して、落ち込み、自分自身が相当にぶれぶれの状態だったからである。どうだまいったか。

そこから少し抜けられたので、もし同じところでグルグル悩んでいるひとがいたら、もしかしたら何か伝えられることがあるかもしれない。

例えば、会うひとに

褒められることもある。
面白いと言われることもある。

それは嬉しい。

その反面

ひとりよがりだ。
自分のことばっかり。
もっとひとのためになることを。

そんなことを言われることも。

「そうか。そうだよな。」

とも思う。

ここ最近のわたしは、これが繰り返され、他人のありがたきお言葉に、ジェットコースターのように自分の気持ちが上がり下がりしていたら、とうとう疲れてしまったのだ。

何に対してもやる気力がなくなってしまっていた。

加えて、ここ最近、体調も悪くしてしまい、もう事態は最悪である。

おそらく、周りから見ればそんなことはわからないぐらいに、社会人としてはそれなりの生活、言動を保っていたつもりではあるし、むしろ平常時より必要以上に笑顔でいたかもしれない。

「本当に自分の幸不幸は自分で決めるのだなぁ」

と、他人事のように、見かけの笑顔とは裏腹な荒れ狂う自分の心の状態、内面の岩にザッパーンと打ち付ける東映の映画の始まりのような大波を眺めていた。

そんなある日、前にお世話になった会社の上司、先輩と飲む機会があった。

ちなみに、わたしはこの会社にわずか8ヶ月しかいなくて、辞めて間もなく3年が経とうとしているのだが、なんら実績を残すことないまま、様々なオモシロ伝説を残し、迷惑だけをかけて辞めていった過去を持つ。

この会社でのエピソードは、またの機会にご紹介できればと思う。

それでも、わたしのことを気にかけてくれて、応援してくれて、チャンスを与えてくれようとする上司や先輩には本当に頭が上がらないというわけだ。

そして、その時の上司との会話で、わたしははたと「あること」に気がついたのである。

上司:「最近、ブログ更新してないじゃん。」

わたし:「あぁ、なんだか最近体調も悪いし、方向性を見失っているのですよねぇ・・・」

上司:「何言ってんだよ。昔からそうだけど本当考えすぎだよな。書きたいことを書きゃいいんだよ。やりたいことやりゃいいんだよ。つまんねえこと考えてないで。」

わたし:「はぁ。書きたいこと・・・」

「書きたいことを書けばいい」

その言葉を聞いた時に、

「わたしの書きたいこと、ひいてはやりたいことって何だ・・・?」

と疑問に思い、自分自身が「何を書きたい」のか「何をしたいのか」これらのことを「わかっていない」というごくごくシンプルな自分の今の状態に気がつくことができたのだ。

最近も、時節柄、「来年はどうしたい?」とか、「今後どうしていくの?」と聞かれるのだけど、その質問に思い巡らせる時、体調の悪さも相まって、まず浮かぶ考えが、「寝たい」「休みたい」「何もしたくない」という、かなり後ろ向きな三拍子だった。

そして、実際、そうなのだろう。

わたしはきっと、「何もしたくない」というのが、今ココでの本当の願いなのだろう。

しかしながら、これは「体の不調」が、その奥底にある自分の長期的な「こうなりたい」という真の願望へのアクセスを通せんぼしているにすぎないだけ、とも同時に思うのだった。

きっとある。
自分の心震える「こうなりたい」という明確な願望がその後ろに控えていることはなぜか、わかる。

今は、自分の願望を探ろうとする時、「休みたい」というまず改善すべき体の声が自分の目の前に仁王立ちしていて、きっとそこに立ち向かい、和解しない限り、真の願望との出会いは果たせないのだろう、と最近は思うのだ。

そして、ひとの意見に左右されるのは、その「願望」をわかっていないから。

「自分の進みたい道」がわからないから、良しにつけ悪しきにつけ、様々なひとの言葉、全てが「正解」だと感じてしまい、ふらふらしてしまう。いちいち気持ちが引っ張られてしまう。

しかしながら、以前の記事、「がんばるない。」でも触れたが、わたしは、「客室乗務員になる」という明確な「願望」を自分でわかっていた時は、もちろん、誰かの意見や出来事で落ち込むこともあれば、自信を失うこともあったけれど、それでも否応なしに前に進んでいた。

途方にくれることもあったけれど、「願望」のままに色々な意見や考えをなんとか振り切り、淡々とやるべきことができた。

例えば、飢えるほどにお腹が空いている状態で、目の前にあんぱんがあったら、たとえ「あんぱん食べるやつとか超ダサい」と周りの人間に言われようが、

「あんぱんはダサいのか・・・でも、お腹空いてるからたとえダサくてもわたしはあんぱんを食べるしかないのだよ。」

という気持ちで、「あんぱんダサい」というひとの視線を振り切り、あんぱんを食べることによって、食物を欲する自分の願望に従うほかないだろう。

そして、ダサかろうが、なんだろうが、あんぱんを食べたことによって、空腹という飢餓感が満たされる。

そういうことなのだ。

ブレるのは、「自信」がないから、ではない。

自分の「願望」をわかっていないだけ。

自分の願望さえわかっていれば、どんなひとだって、そこに向かって、迷いながらも、悩みながらも行動せざるを得ない、そんな生き物なのだ。

わたしたちは、自分の願望を知ってしまったが最後、満たさざるを得ない生き物なのだ。

というわけで、わたしは、まず自分の中で通せんぼしている、この「身体の声」とまずは来年は向き合っていこうと思う。要は、「身体を整える」ということである。

ずっとずっと、なんだかんだ、中途半端にしか向き合わずにきたこの障壁を乗り越えた時に、どんな真の願望が自分の中にスタンバッているのか、今はとても楽しみだ。

そして、長期的な願望が今はぼんやりしてよくわからないから、今ココの短期的な気持ち「誰の目も気にしない、今『発信したい』と感じた自分の内側のリアルな声」、そして、「元気になりたいと訴える体の声」それらのひとつひとつを大事に拾っていこうと思う。

きっと、その、「今ココ」の短期的な自分の願望をコツコツ叶えてあげることが、その奥に控えているおっきな願望に繋がっていくのだと思っている。

というわけで、ひとの意見に左右されてしまい、ぶれにぶれて、ふらふらしてしまう。そしてそんな自分を責めて自暴自棄になってしまうひと、ほんの少し前のわたしのような状態の方。

今は、思いっきり、ぶれて、ふらふらして、自暴自棄になることをお勧めする。
思いっきり味わって、振り切れてみることをお勧めする。
堕ちるところまで堕ちきることを。

「ブレる自分はだめだ」と、とってつけたような思ってもない綺麗事を言ってみたり、中途半端に、ブレる自分を否定しながら、本意ではないことを続けることは、自分の願望と出会うためには、大きな回り道になってしまう可能性大だ。

ひとの意見に思いっきり左右されて、あっちいったりこっちいったり、何がしたいかもわからないそんな自分を責めて・・・を繰り返していると、もういい加減疲れて、「あ、もう、自分のやりたいようにやろう」と、ふっと抜ける瞬間がやってくる。だれの言葉でもなく、自分で自分にそんな言葉をかけてあげられる瞬間がやってくる。

ひとからの励ましは貴重だ。
それが必要な時もある。

でも、ひとの言葉によって、上がり下がりをずっと繰り返していると、いつまでたっても、ひとからの賞賛と非難によって自分の状態がいとも簡単に左右されてしまう。

やはり、自分を動かし安定させるためには、自分の中から湧き上がる根拠のない自分への承認を、自分の力で、掘り起こすしかないのだろう。

そのためには、自分に様々な感情を味わわせて、揺さぶり、そぎ落とし、「そうか。これでいいんだ。」と自分の力で、腑に落とす作業が必要となる。

だから、安心して、思いっきり、疲れるまで、右往左往しようじゃないか。

そして、もうひとつ忘れてはならないのは、わたし自身、きっと今後も、こういう状態に陥ることはたくさんあるのだろうということ。

人生、常に良い時ではない。
少しづつ成長しながらも、やはり様々な場面で、自分の願望を見失い、途方に暮れてしまう時はだれにでもきっとある。

でも、それは、「生きていれば絶対あるものだ」、という認識、「絶対抜ける瞬間がくる」という心持ちでいると、思いっきり、ぶれて、右往左往して、落ち込んで、責めて、という心の新陳代謝ともいうべき必要な行為に、逃げることなく、安心して取り組むことができるはずだ。

というわけで、現在、「No-No ガンボウ」または「Dont-Know ガンボウ」のひとで、自分はきっと真の願望に気づけていないと思うひとは、何が自分の願望を知ることのブロックになっているか、今一度自分と向き合ってみることをお勧めする。もしくは、小さな、今ココの「心と体の声」を丁寧に拾っていくことから始めよう。

共に、真の願望にまっしぐらな「Gu-Guガンボウ」を目指そうではないか。

醜い、鳥もどきだから「ガンモ(ドキ)」と呼ばれていたガンモが、実は、「高貴な鳳凰の卵」だったというまさかの驚愕な最終回のように、あなたもわたしも、美しく羽ばたくその日がやってくるのを信じて。

[ Gu-Guガンボウ。 ]オモシロ美人哲学。2016/12/23 15:10