誤解を恐れずに言うと。

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ご機嫌麗しゅう。
オモシロ美人研究家Chacoである。

「誤解を恐れずに言うと」という枕詞がある。

わたしは常々不思議に思っていたのだ。

「誤解を恐れずに言うと」
というひとの顔が恐れにまみれていることを!!

というか、そもそも恐れているからこそ
「誤解を恐れずに言うと」なんていうことを言うのだろう。

誤解を恐れていないひとは、こんなことわざわざ言わないはずだ。

ただ、わたしは良いと思っている。
誤解を恐れても、だ。

恐れながらも、どんどん言いたいことを言うべきだと思っている。

なんなら、誤解を恐れて、五階の窓から、
「うぉーーーー誤解がこわいぜーーーー!!」
とゴーカイに叫んだらよろし。

しかしながら、わたしは「ゴカイ」よりも「ウカイ」の方がもっと恐ろしい。

鵜飼い。

アユなどの魚を「鵜」という鳥に獲らせ、それを吐き出させるという漁法である。
また、それらを行うひとを指す。

鵜には申し訳ないが、わたしは鵜でなくて、本当に良かったと思っている。

諸君も想像してみてほしい。

烏帽子をかぶって腰ミノをつけた人物が目の前に現れ、有無を言わさずあなたの首に縄をつける。

あなたは突然の出来事に大いに動揺するが、相手が烏帽子に腰ミノというなかなか
現代日本においてはお目にかかることはないいでたちをしているため、まずはその風貌に驚いて
しまったためにとっさの抵抗ができずされるがままとなる。

そして、その人物に引っ張られて
あなたはあなたの好物がたくさん並べられている場所連れて行かれる。

そして、あなたは「わぁ」と目を輝かせて、そのご馳走に手を伸ばし、それを口に運ぶ。

そうしたところ、その人物がいきなり縄をぐっと引っ張る。

あなたは「ぐえ」といい、せっかく口に入れ、いざ咀嚼しようとした大好物を吐き出すはめになる。

あなたは涙目になって、「なんなんだよ…」と烏帽子に腰ミノの人物を睨むが、その人物は表情を変えず
あなたが吐き出したマカロンとか、イカリングをそそくさと拾い集めている。

そして、あなたをまた大好物の前まで連れていく。

あなたは先ほど縄を引っ張られ、好物を吐き出させられたことも、目の前のご馳走を見て吹っ飛んでしまい
またも、エッグタルトとか、エビチリに手を伸ばし、噛みしだこうとしたところ、縄を引っ張られ「ぐえ」と
言って吐き出させられるのだ。

ご馳走の前に連れ行かれては、吐き出させられる。
延々と、この繰り返しだ。

そんな鵜の境遇を想像すると、鵜が不憫でならないのだ。

しかしながら、鵜飼いも生きていかなければならない。
理不尽であると思われることがこの世に多く存在するが、人々が「生きる」と強く決めた上での不条理は
わたしたちには誰も責める権利はない。

無意識のうちに、自らも別の不条理に加担していることは、実際に多くある。
わたしたちは犬を可愛がりながら、豚を食している。

生きるとはそういうことなのだ。

生きること。
皮肉にもそれ自体が理不尽であると言えるのかもしれない。

しかしながら、もう一つ。わたしは鵜に対して、不憫に思っていて、それは本当に彼らに対して
理不尽ではないだろうか、と憤っている件がある。

それは鵜飼いに対して、ではない。

「鵜」という名前をつけた人物である。

「う」って!!
一文字て!!

これは適当にもほどがないだろうか。

わたしは一文字の生き物を思い浮かべた時に、「鵜」の他には「蛾」くらいしか思い浮かばなかった。

しかも、「う」なんて、50音の3番目、あっという間に登場するではないか。

「あー、あの鳥なんて名前にする?
『あ』じゃないな。『い』…もなんか違うな。『う』…『う』でいいんじゃね?」

そんな投げやりな名付け会議が想像される。

蛾はまだ良い。濁音だから、登場がだいぶ後である。
よって、「あ」行から始まり、「が」行にたどり着くまでの間に、皆で議論を重ね、「蛾」に
ふさわしい名前をつけようとという試行錯誤感が伝わってくる。

それと比較すると、同じ一文字でも「鵜」はかわいそうでならない。
願わくば、「あ」から始まり、一旦「ん」まで行き着いたがどれもしっくり来ず、また振り出しである「あ」
に戻った挙句の、2度目の「う」であってほしい。

このように、鵜について話し出すと、わたしの暴走が止まらなくなるので、
そろそろ迂回して次に進むことにしよう。

ーーー

冒頭の「誤解を恐れずに言うと」という表現であるが
発言者は「誤解」を生むことを大いに恐れている。

恐れているのに、「恐れずに」と言うとはこれいかに。

わたしはこの言葉には、発言者の「強い意志」と「自分への客観的視点」を感じずにはいられない。

自分の発言が、世の中でまかり通っている「常識」や「固定観念」から逸脱していて
それを承知の上で、多くのひとからの批判や反論を浴びる可能性があろうとも
自分の信念を発信したいという強い気概が、この枕言葉の後に続く発言には込められているのだ。

なので、わたしはこの「誤解を恐れずに言うと」と言う表現と出会うと、その後にどんな発言が
待ち構えているのかと、ドキドキと興奮しながら読み進めている。

この前置きがあるのとないのとで、受け取る側の心構えが大きく変わってくるのだ。

この言葉があるだけで、たとえそれが「非常識な発言」と多くのひとが捉えたとしても

「あぁ、このひとは、自分とその発言がどのような立ち位置であるかを
客観的に把握できていて、その上でこの発言をしているのだな。」

という一定の理解を、読み手に自動的に促してくれるのだ。

情報発信していく上で、この

「わたしは自分をちゃんと客観視できるんでそこんとこよろしく哀愁感」

は非常に重要だと感じている。

その上での、奇抜な表現や奇をてらった発言こそが、人々を魅了するのだと信じている。

わたしも、通りいっぺんではなく、多くのひとに対して「誤解」を与えてしまうのではないかと
恐れを抱きながらも、その恐れに屈することなく自分の本当の思いを発信していけたら、と思っている次第である。

「誤解を恐れずに言うと」、を上手に活用しながら。

そして、わたくしごとではあるが、週末は所用があり、ブログの更新が滞る予定であるが、
わたしはきっと生きているので安心して諸君は素敵な週末を過ごしてほしい。

また来週、パワーアップして、この場でお目にかかりたいと思う。

誤解を恐れずに言うと、
わたしはいつもこのブログを読んでくれる諸君のことが大好きでたまらないのである。

アデュー!!

◉オモシロ美人の今日のコトバ◉
「誤解」は大いに恐れてよし。恐れながらも、どんどん「本心」を発信せよ。

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[ 誤解を恐れずに言うと。 ]オモシロ美人ブランディング。2016/04/22 00:36