がんばるない。

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こんばんは。
Chacoです。

がんばったら、うまくいく。
 
がんばらないほうが、うまくいく。

古くから日本では、「根性論」という、根性を持って苦しみに耐えて、努力を重ねることこそが尊いという考え方が根強くありました。


いわゆる「がんばること」、「たゆまぬ努力」こそが美徳であり、賞賛されるべきものとして、まだまだ私たち現代日本人の思考回路にも刻み込まれていると言っても過言ではありません。

ちなみに、「根性論」を辞書で調べたら、「ガンバリズム」というルビが振られていました。

「なんだ、ガンバリズムって、バカリズムみたいで、滑稽で、かわいいな。」

と思いました。

「根性論」だと、とても重苦しい気がするのですが、同じ意味でも「ガンバリズム」だと、

「うーーーー!ガンバリズム♪」

といった掛け声とともに、なんだかんだリズムに乗りながらも、根性で頑張れてしまう気がするのはわたしだけでしょうか。

話がそれました。

そして、その一方で、最近は、「がんばらない方がうまくいく」という理論が台頭を始め、書店に赴くと、「がんばらない」もしくはそれに類似したタイトルの書籍を多く目にします。

果たして、わたしたちは、がんばった方がいいのか。がんばらないほうがいいのか。

今日は、わたしの最近の研究課題、「がんばる論」と「がんばらない論」について、わたしなりの視点で考察してみようと思います。

まずは、「がんばる」とは、どういこうことでしょうか。

ここで、仮説として、「がんばる」ということを、「行動しづつける」と定義づけようと思います。

一過性のものではなく、何か目標や理想に向かって、「行動を続ける」という意味です。

いかにも、「がんばっている」という感じですよね。

となると、「がんばらない」は、「行動をしない」もしくは行動を起こしてはみたものの、「その行動をし続けない」という意味になります。

しかしながら、「がんばらないこと」を提唱されている著名な方々は、「がんばらないことの素晴らしさ」を日々提唱され続けているので、「頑張らない」というのは、「行動をし続けない」という意味ではどうやらなさそうです。

どうしたことでしょう。早くも、わたしの仮説が破綻してしまいました。

がんばるってどういうこと?

がんばらないってどういうこと?

早くも混乱してきました。

そもそも、「がんばる」も、「がんばらない」も、これといった明確な定義がなく、各々の、各々による、各々のための「がんばる」と「がんばらない」があるのかもしれません。

***

少し、わたしの話をさせていただくと、わたしが、第三者的に見て、「がんばったね」とよく言われるのは、客室乗務員を目指して挑戦を続けた2年間です。

目指し始めたのは、社会人1年目の、付き合っていたひととの別れがきっかけでした。失恋でした。

まだまだ若い時分。

青かったわたしは、「彼を見返したい」という思いもありましたし、正社員で安定して恵まれてはいるものの、このまま、時が来たら結婚して、子供を産んで、わたしの人生は過ぎていくのか・・・と考えた時に、何か人生に変革を!と思い立ち、「憧れ」や「勧め」もあって、なんやかんやの流れで航空会社の「客室乗務員」を目指し始めます。

航空会社への就職をサポートするスクールに、仕事帰りに通い、立ち居振る舞いや、面接での受け答えを学びました。

仕事場が、制服だったので、スーツを着ていくと怪しまれると思い、スーツは持って行き、終業後に、近くのデパートのトイレで着替え、髪をまとめ、濃いめのメイクをして、スクールに通っていたのを思い出します。

しかしながら、最初の応募から、不合格の連続。

面接って、今となればほぼ面接官との「相性」と「運」でしかないと思っておりますが、まだまだ青かったわたしは、「他の誰かは選ばれたけれど、わたしは選ばれなかった」という事実をなかなか受け入れられず、不合格通知が来るたびに、持って行きようのない絶望感に苛まれておりました。

それでも、次にまた別の会社の募集が出れば、再度奮起して、エントリーシートを必死で埋めて、その会社の企業研究をして、応募する・・・そして、その度に、不合格をつきつけられ、肩を落とし、ひとしきり落ち込んだ後に、また、次の会社に応募するということを繰り返す日々。

しかしながら、ある外資系の航空会社の最終英語面接で、英語が全くうまく喋れなくて大変落ち込み、そしてやはり、不合格の通知をもらったことで、「やはり、客室乗務員になるには英語力がないとダメだ」ということを痛感し、半年後に、会社を辞めて、海外に行こう。と思い立ちます。

半年間でお金を貯め、家族の応援もあり、安定した正社員の職を捨て、カナダにワーキングホリデービザで渡加します。

わたしの祖母が内陸の湖が綺麗な街に娘家族と住んでいたので、最初はそこにお世話になっていたのですが、初めて会う英語しか喋れない娘家族たちと、英語ができないわたしはうまくコミュニケーションをとることができず、常に気をつかい、落ち着かない日々に耐え切れず、3週間ほどその街で過ごした後に、単身、バンクーバーに移動し、ひとりで生活することにしました。

語学学校に通いながら、生計を立てるためにアルバイトを探します。

色々と面接を受けたのですが、航空会社の試験同様やはり英語ができないわたしは、アルバイトですらなかなか合格できない中、運良くバンクーバーのイタリアンコーヒーのチェーン店で、採用してくれることになりました。

アジア人はわたしだけで、働いている全員が、流暢な英語を話します。

当時は、英語が喋れないどころか、よく聞き取れず、加えて鈍臭かったので、教えられたことを一所懸命やっているつもりでも、「仕事が遅い」「なにやってんだ」とよく怒られました。

ある日、朝からお腹が痛くて、周りの目を気にしながらも耐え切れず何度かトイレに行っていたのですが、それを見た年下のアルバイトの女の子に、「サボるな」と怒鳴られ、「お腹が痛かっただけなのに…」と思いながらも、英語でどう言ったらわからず「ソーリー…」としか返せない自分がこれまた情けなくて。

周りの足を引っ張って、迷惑かけて、挙句、全く信頼もされていない、そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかったです。

とても人気の繁盛店だったため、そのように同僚たちから疎まれ、刺さるような視線が、英語ができず鈍臭いわたしにいつも注がれていたように思います。

それでも、生活費を稼がなければいけないし、英語を身につけるには英語環境に身を置くのが一番であると思っていたので、愚直に、地味な仕事ながら、フロアの掃除や、ミルク、シュガー等の補充、食器洗い等、英語ができなくてもできる仕事を淡々と続けました。

英語にも徐々に慣れ、少しづつ他のスタッフたちともコミュニケーションが取れるようになってきて、また、お客さんとも会話をするようになってきました。

わたしはネイティブではないし鈍くさかったので、「キャッシャー」というレジの仕事や、ドリンクを作るおなじみの「バリスタ」というカフェにおける華々しい役割は任されませんでしたが、「グリル」というものすごい熱い鉄板で汗だくになりながらパニーニを焼いたり、片付けや、清掃、補充という地味な仕事をただひたすら愚直にやり続けたところ、スタッフの回転が日本よりも早いあちらでは、地味な仕事しかしない割には気がつけば古株となっていたわたしは、周りから頼られる存在になっていました。

日本に帰国するときには、マネージャーに「Don’t go back.」と引き止めてもらえるまでになっていたのです。

そんなアルバイトをしながらでも、日本で、受けたい航空会社の採用試験があったら、そのためだけに一時帰国して、受験したりもしました。不合格でしたが。

今考えてもようやってたな、と思います。

1年間のバンクーバーでのワーホリ滞在を終え、帰国したわたしは、ホテルのフロントと、コールセンターのアルバイトをかけもちしながら、懲りもせずに、客室乗務員への挑戦を続けます。

地元から、東京や大阪へも遠征しました。

そして、ようやく、2年間の挑戦が実を結び、ある会社から合格通知をもらい、晴れて、目標だった、「客室乗務員」になることができたのです。

つい先日、同期と話していたら、900名ほどの応募があったそうなので、そのうちの20名に選ばれたということは、本当に運が良かったな、と思っております。だって、最終面接、頑張って身につけた英語、ほとんど喋らないまま終わったのですから笑

***

というわけで、これがわたしの「がんばったストーリー」(の一部)です。

「がんばったでしょ?」といわんばかりの雰囲気であえて書いてみました。

しかしながら、この2年間、客観的に見れば「がんばった」と言われる雰囲気ですが、自分では「あぁ、わたし本当がんばった!!」という印象は全くないのですよね。

というわけで、ここに何かヒントがあるのかも、と思い、この「がんばった」時のわたしは、どんな思考を持ち、どんな思いで行動していたのかな、って考えてみました。

そうしたところ、「客室乗務員にならないという現実がわたしにはない」という前提で、当時のわたしは動いていたのです。

これは「わたしが客室乗務員になれないわけはないわ」という「自信」などではなく、「ならない」という「現実」がわたしの辞書にはなかった、といった感じです。

「客室乗務員に絶対なる前提」

が最初の時点で自動的にインストールされたのですよね。

なので、もしかしたら、2年で夢を叶えることができましたが、その前提が崩れない限り、もしかしたら、今でも受験を続けていたかもしれません。

その「前提」があると、行動って、もはやオートマチックに展開していくものだと思います。

もちろん、ひとつひとつの「行動」、「行為」は面倒だし、「やりたくないな」って思うことの連続です。

でも、「絶対にそうなる前提」があると、たとえ面倒でも、やってしまう。

やらないと気持ちが悪い。
やらないと気になってしょうがない。

そんな感覚で、目の前のことをこなしていけるのですよね。

だから、この「絶対そうなる前提」があるのと、ないのとで、「がんばれる」か「がんばれないか」が決まってくると思うのです。

何かを成し遂げたいとか、経済的に成功したいとか、自己実現したいとか、そういう願望がひとには少なからずあるとは思うのですが、「絶対そうなる前提」のインストールがあるとないとで、その過程において、例えば、10代の若者が階段を登るのか、80代の足腰の悪い高齢者のひとが階段を登るのかぐらい、「負荷」が違うと思っているのです。同じ階段を登るのでも。

だから、他のひとはできているのに、自分は「がんばれない」すなわち「行動を続けることができない」ということで、自分を責めることはないと思います。

そこを責めてもしょうがないし、そもそも10代と80代の違いがあるのですもの。

それでもそこは踏ん張って頑張れという根性論もあるかと思いますが、そのような根性だけに任せたがんばりで、何かを手にしても、常にしんどい思いを抱えることになると思うし、後になってガタが必ずきます。

恐らく、「がんばれる」ひとの大半は、その「絶対そうなる」前提がきちんとインストールされているのだと思います。

だから、行動をして、続けることができる。時に「面倒だな」と思いながらも。やらずにはいられない。目標を実現するために。

かくいう、わたしがそうでした。

当時のわたしは、「わたしの辞書に「客室乗務員にならない」という言葉はない」と言わんばかりに、目の前のことを次々と、辛いことがありながらも、長きにわたってこなせたあの「感覚」は今でも忘れません。

だから、誰でも「がんばれる」力はある。

ただ、今何かを「がんばれない」あなたには、その「絶対そうなる前提」がないだけなのです。

「前提」が自動的に生まれないということは、もしかしたら、その「願い」や「目標」は、あなたが本当に望んでいることではないのかもしれないですし、そうであるのなら、無理に続けることはない。

やめてもいい。諦めてもいいと思います。

そもそも恵まれている環境に身を置いていて、実はそこまで変化を望んでいない可能性だってあります。

・・・でもね。

そうは言っても、何か気になる。

なにがなんでもやってみせるという「感覚」はないのだけれど、やはり、気になるし、頭をチラつくし、諦める自分を情けなく感じる。

そういうことって、あると思います。

わたしもあります。

と、ここで、わたしと同様、物事を長く続けられない、いわゆる「飽きっぽい」方へ、悲報です。

やはり、この世の中、「コツコツ続ける」ことこそが、目標実現に向けての近道で、かつ、周りからの信頼を得られる行為のようなのです。

わたしにおいては、客室乗務員への挑戦を始め、英語ができない中でのカナダでのコーヒーショップでの仕事などがそうですが、わたしに限らず、多くの人を見てきて思うのが、やはり、最終的に「続けたかどうか」なのですよね。

なぜなら、「飽きっぽい」と豪語しているわたしですら、やはり、何か仕事で誰かにお願いするとなると、コツコツと地道に取り組んでいるひとにお願いしたいと思うし、そういうひとを信頼してしまうという矛盾。

残念ながら、やはり、この社会は、「続けているひと」という存在が重宝され、信頼され、一目置かれるようなのですよね。

嗚呼、飽きっぽい代表のわたしには耳が痛い。

まずは、何事も、続ける。

ビジネスで言うなれば、その上での、「マーケティング」であり「ブランディング」のだと思います。

というわけで、何かぼんやりした願望があり、でも、「絶対そうなる前提」がないため、なかなか続けられず、投げ出してしまい、そんな自分を責めてしまうひと。わたしのようなひと。

そんなひとは、やはり、どうすれば「続けられるか」だけを、まずは考えるといいと思います。

わたしにとっての来年は、今年蒔いた種をじっくり育てることなので、「続ける」という一番苦手なことがテーマです。

なぜなら、「こういう自分、こういう状態になりたい」という漠然とした願いはあるけれど、それが明確ではないし、「絶対そうなる前提」が自分にはインストールされていないから。

だから、目の前のことが億劫になりがち。

なので、「続ける」comes first!の精神で、「続けるために、どうするのが良いか?」という問いに、わたしは自分に対して、今まで自分で定めていたブログに対する「こうでなければならない」という制約を外しました。

思ったことを書きたいように書くことが、わたしにとって「続ける」に繋がるので、続けられる状態であることを最優先しようと思っています。自分なりにハードルを落として。

ムチを打って、厳しく自分を叱咤激励し続けても、それは、遅かれ早かれ、途絶えてしまうと思うのです。

そうしたら、まぁ、なんということでしょう。

この記事、気がついたら6,000字書いてしまっておりました。

ここまで読んでくださっている方、果たしているのでしょうか。

まぁ、いなくてもいいのです。

それでも、続けて書いていきたいと思います。

というわけで、ここでやっと結論ですが、

「絶対そうなる前提」がインストールされたひとは、がんばれば良い。なぜならがんばれるから。

もう今の状態が幸せで、満足できる、もしくは、もう「辛かった苦しみから己を解放してあげたい」と思うひとは、もうがんばらなくていい。

「絶対そうなる前提」がなく、なんとなくぼんやりした願望だから、オートマチックに目の前の様々なことをこなしていけないようなひとは、「がんばるない」でいい。

 

がんばるない=行動し続ける(がんばる)けれど、それを続けるために、ハードルを下げ、楽しんでリラックスして(がんばらない)、取り組んでいくこと。

「がんばる」と「がんばらない」の両方の良いところをミックスしたのが、「がんばるない」というわたしなりの造語です。

というわけで、「続けること」を第一に、がんばるない精神で、わたしは来年も引き続き、目の前のことをコツコツとこなしていきたいと思っています。

飽きっぽいみなさん、やった方がいいのに、なかなかやれないみなさん、さぁ一緒に、


うーーーー!がんばるない♪♪

なんか、すんません。

 

 

 

[ がんばるない。 ]オモシロ美人哲学。2016/12/13 00:54