どうせ愛されてるし。


「どうせ愛されている前提」で人生を生きることをおすすめする。

銀座で働き始めて4ヶ月目。

接客について、マナー作法について、さまざま学ぶことはあるにしても、公私混同はなはだしいが、わたしの場合、「自分」という人間に対する「気づき」を、お金を頂きながらさらにもらっている感が否めない。なんとうありがたいことよ。

そのうちのひとつに、「愛されている前提で人と関わるとなんだかいろいろと具合が良い」ということ。

わたしは基本的に、人見知りである。

たとえば、CAをやっている時の、ある程度距離感を保ちつつの、軽めの「量をこなす」接客。食事や飲み物を配ったり、御用を聞いて何かを提供したり等、はひたすら感じよく、笑顔で、当たり障りなくこなせばよいし、その接客ももちろん好きなのだけれど、クラブでの仕事となると、そういう接客とは大きく様相が異なってくる。(CAの仕事も、ファーストクラスやビジネスクラスの少人数のお客様と接する場合には、もっと濃く、密で、繊細な気配りが必要とされるけれど。)

また、不動産会社で、資産運用を絡めたコンサルタント的な営業職をやっていた時、お客様と深く関わり合いが保てるし、お客さんの資産や、多額の金銭を扱うということで、通り一遍ではなく、ある程度人間味のある関わりが必要となってくる。・・・が、やはり、この接客も、「お客様」と「営業担当」という強固なボーダーラインが根底に横たわっており、最初の接客から契約に至るまで、またそこから引き渡しに至るまでの期間はかなり密なやりとりをするものの、基本的には、それらが終わると、実務的な内容以外のやりとりは終了する。中にはその後も懇意にさせてもらったお客さんもいるけれど、ほんの一部。

銀座での接客は、それらとはまたひとつもふたつも違う。

単なる「お客様」と「接客をする者」というシンプルな役割では到底表しがたい、大変に奥深い・・・というか、シンプルに表現しづらい関わりが必要とされるのを目の当たりにする。

まずは、お客さんにお店に来てもらい、お金を払ってもらうわけで、こちらはお客さんにリラックスして、楽しんでもらうというのが、一番の目的となる。

当たり前だけれど、99パーセントが男性のお客様である。

だからと言って、「お客様は神様です!!」と言わんばかりに、お客さんを上に見て、自分を下に配置し、ただひたすら、褒めて、仕事の疲れを労って、ただただ丁重にもてなし、とことんお客さんの話(言い分)を聞いて・・・という言わば日本的に一般的な「接客」というものが必要とされているわけでは決してないのだ。

***

先輩にあたる女性(お姉さん)のお客さんの席に座らせてもらった時など、よく、お姉さんにさんざんこき下ろされているお客さんの姿を目の当たりにすることがある。

 「この人さ、○○で、○○なんだよ。ひどいよね」

 などと、そのお客さんの過去の恥ずかしいエピソードを、新人のわたしに惜しげもなく披露してきたりする。

 (え、え、お客さんなのにそんなこと言っちゃって、だだだ大丈夫かしら!?)

 と心配になりながら、お客さんを見ると・・・なんだかまんざらでもない感じで、

「おまえそれ言うなよーーー」

と、こきおろされながらも、なんだか嬉しそうにお姉さんに反論したりしている。

 そして、その後、お姉さんより

「まぁ、こう見えても、普段の仕事の時は、部下の面倒しっかり見て、優しい上司なんだけどさ」

というフォローがしっかり入る。

 (おぉ・・・なんだなんだこの信頼関係。)

 と、お客さんと女性の関係性が、今まで携わってきたさまざまな接客とはかなり一線を画すること、また、「お金」が媒介する(直接的ではないけれど)関係でありながらも、家族のような、恋人のような、秘書のような、友人のような、一言では言い表せないこのなんとも言えない「関わり方」が、非常に新鮮であった。

 

 今まで「お客様」と「接客する者」というしっかりした線引きを配して、ある意味それによって自分を守っていた節がある。

 「わたしは所詮、接客する者だから、おいそれと、そんなお客様のプライベートな部分や、深い部分まで入り込むなんてそんなそんな!恐れ多いでございやす!!へへぇ〜〜〜〜!!」

といった具合に、「接客」を盾に、飛び込むことを恐れていたというか。

 よく、不動産時代の同僚で、お客さんと仲良くなって、プライベートでも飲みに行ったりしているひとがいたが、わたしはそういうことがほとんどなかった。

 その「お客様」と「接客担当」という垣根の越え方がわからなかったし、まぁわたしはそこまでしなくて別にいいやと言った感じで、どこかで、お客さんと深い信頼関係を築き、実際そのお客さんから別のひとを紹介してもらったり、仕事の面でも好影響を引き出している同僚を羨みながらも、諦めていたというか、割り切っていたというか。

 なので、このお姉さんとお客さんの強固な信頼関係。

ただ相手を褒め称えて、持ち上げるだけではなく、相手のことをよく知り、信頼関係が築けているからこその、絶妙な「おちょくり」と、でも、きちんと男性を立てるところは立てるという、「尊敬」。そして、男性を包み込んであげるような「癒し」。どれか一つだけではいけなくて、きちんと向き合い、相手を深く知ろとする姿勢、またその勇気を持たなければ、到底、このような信頼関係は築けないだろう。

 そして、同時に、お姉さんも自分の弱点や、人間味のあるところも、きちんと開示しているからこその、関係な気がする。

 なんという奥深さ!

 この仕事は一筋縄ではいかんぞと、気を引き締めた次第である。

 

しかしながら、わたしは人見知り。

やはりお店の大事な「お客様」という意識が抜けきれない上に、人見知りも相まって、ますますお客さんとどう接していいのかがわからなかった。

 ただただ感じよく、笑顔で話しを聞くことはできるが、それだけでは、到底お姉さんとお客さんのような関係は築けないだろう。

 

そこで勇気を出すことにした。お酒の力を借りて笑。

オーナーママからも、

「もっとお酒を飲んで、お酒の力を借りた方がいい。あなたは真面目で、少し固い。」

というアドバイスをもらっていたのだ。

 

確かにお酒を飲むと、気が大きくなる。

普段気にしている細かいことがどうでもよくなる。

お酒を飲むと、普段そこまで楽しいと思えないこともなぜかものすごく楽しく思えたりする。

 要は、リラックスして、笑顔になれて、少しいつもより大胆になれるのだ。

 もちろん、仕事中なので、それに支障があるほどの酔っ払いになってはいけないし、そのあたりはきちんと調節をしたうえであるが、「少しの酔い」は、新たな自分を「試す」上で、アリなのかもしれない。

 そして、もうひとつ。

お客さんと信頼関係を築くためには、お客さんと仲良くならなければならず、お客さんの連絡先を聞いて、連絡を取り合うということが、必要になってくる。

しかしながら、最初の頃のわたしは、それがなかなかできなかった。

自分の名刺はあるので、それを渡して挨拶して、何も言わなくてもお客さんからも名刺をもらえることもあるが、そうでない時、「わたしもお名刺いただけますか?」とか「ご連絡先をうかがってもよろしいですか?」の一言がどうしても聞けなかったのだ。

なんだか、「わたしに聞かれても困るだろう」という思いと、「お願いして断られたらショック!」という二つの思いが交錯していたように思う。

 

それを黒服のひととの面談で話した時も、

「・・・?なんでそう思うんですか?」

と、呆れた様子で問いかけてきた。

 その様子を見てわたしも、

(・・・確かに。なんでそう思うんだろう。)

と思った。

 わたしは基本的になぜか無意識に「嫌われている前提」で生きてきたのだということを思い知らされたのである。

「わたしに連絡先を聞かれても、困るだろうし、断るのに気を遣わせてしまう。」

「わたしなんて。わたしなんて・・・」

 ほぼ無意識だけれど、今まで色々なことに受け身だったのは、「どうせ嫌われている前提」で生きてきたからなのでは、と気付かされたのだ。

 「どうせ嫌われているし、その上拒否されたら、わたしはこの先、どうやって生きていけばいいのだ!」

 と、少し大げさだし、これは無意識に近い反応なのだけれど、どうやらそのような「拗ね」が自分のなかにいつも存していることに気付かされたのだ。

 だから、基本的に受け身の姿勢でいて、相手が自分に好意を示してくれて、初めて、自分を出せる・・・といった人間関係に終始していたのだろう。

 でも、冷静に考えて、自分自身、まずもってひとをあまり嫌いになることがないし、誰かがひと懐っこくコミュニケーションを取ろうとしてきたとして、それを果たして不快に思うだろうか。いやいや嬉しいだろう。「好き」と思えないまでも、決して不愉快になることはない。

 あと、「断られたらショック」というのも、「断られる=ひととしての価値がなし!」という方程式にのっとれば、それはなかなか傷つくだろうが、普通に生きていて、「こいつとは何がなんでも死んでも関わりたくないゼェ!!」と思われるほどのことをしていないというほのかな自信はあるし(だれでもそうだろう)、断られたとしても、クラブの女性とは連絡先を交換しないという信念を持っているひとなだけかもしれない。

 断られたとしても、そこにひととしての価値は関係ない。

なんらかの「結果」を自分の「価値」と自動的に結びつけてしまうから、様々なことに「恐れ」が生じるのだ。

 冷静にひとつひとつ考えると、「どうしてそんなに大事のように、深刻に考えてしまうんだろう・・・?」という自分の思考のクセを知ることができた。

 というわけで、勇気を出して、少しのお酒の力も借りて、「どうせ愛されている前提」でお客さんと接することにしたのだ。

 実際、愛されているかなんてわからないし、もしかしたら第一印象で嫌われているかもしれないし、まったく興味を持たれていないかもしれない。

けれど、そんなものはいくら考えたところで、そのひとの本心はわからない。いくら考えても答えが出ないのであれば、そこを勇気を出して、積極的に正面切って、お客さんにぶつかっていくことにしたのだ。

 多分、もともと「愛されている前提」が備わっているひとには、「そんなに大変なこと?」と思われるかもしれないが、何かしらのきっかけで、どこかの時点で、その前提が覆された経験のあるひとたち(わたし含む)にとっては、なかなかのバンジージャンプ的行為なのである。

最初は恐かった。

やはり、「わたしに馴れ馴れしくされて、嫌ではないだろうか?連絡先を聞かれて困らないだろうか?」という思考が瞬時に飛び出るのだけれど、お酒を飲んで、少しのリラックスと、勇気を持って、「接客」という垣根を飛び越え、くだけた感じで、接してみる。時に、突っ込んで話しを聞いて見る。そして、自分という人間を開示する。まるで丸腰で、鎧を着た敵陣に突っ込む無謀な農民兵の心境であった。

そう。「わたしは愛されている前提」とともに。

 そうすると、面白い。

今までだったら、即座に「嫌われている」とか、「わたしといて楽しくないんだ」という判断をくだしてしまいそうな、お客さんからの「反応」や「言葉」に一瞬傷付きそうになったり、落ち込みそうになるのだけれど、「ん?ちょっと待てよ?」と一呼吸置けるようになってきた。そして冷静に捉えて、「いやいや、考えすぎだ」と思考の方向を調整できるようになってくるのだ。

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。」

そんな風に、物事をグレーの状態で保持できるようになってきた。

 ある時、初めてお席にお邪魔したお客さんが、全然目を合わせてくれないし、わたししかいないのに、黒服のひとに話しかけてばかりで、ロクに話しもしてくれないので、

「あぁ好かれていない。他のひとに変わった方がいいのかも。。」

と思い、トイレに立った時にその旨、黒服のひとに話しをしたら、

「いやいや、あの人ああ見えて、すごい楽しんでますよ。」

と言われ、

「ええええ!あの反応で!?それはないでしょーー!」

と驚いたが、その後もそのお客さんはちょくちょく来てくれて、今では一緒に楽しいお酒を飲んで話しをさせてもらっている。

「あぁ・・・楽しんでもらってたんだね・・・あのひともわたしと一緒で人見知りだっただけで、わたしの場合は、緊張するとやたら力が入って饒舌になるけれど、あのひとは違う反応をするんだね・・・。」

と今思い出せば、力が抜けるばかりである。

 ひとってわからない!!

 今まで、いかに、自分の尺度、ものさしでもってひとの感情や気持ちを、かなりの独断で、疑うことなく判断していたなあと、そんな自分に驚くばかりであった。

 というわけで、ひとの気持ちを考えるだけ、そこで一喜一憂するだけ、無駄なのだ。

 無駄なのだから、もう、「愛されている前提」で、ポジティブに、少しの勇気を持って、明るく体当たりしていった方が、色々と良いのである。

 もしかしたら、まったく愛されていないのかもしれない。こっぴどく嫌われているかもしれない。痛い目を見るかもしれない。なんとも思われていないかもしれない。

でも、「嫌われているかも」、と及び腰の中途半端な態度だと、逆に相手が「わたし嫌われている!?」と勘違いしてしまうかもしれず、そんな嫌われている相手に「それでも」と、好意的な態度を貫けるひとって、おそらくなかなかいない。

 だからこそ、自分は「わたしはあなたに愛されている。でも、もしあなたがわたしを嫌いでも、それでもわたしは好きだよ!」の姿勢の方が、少しおめでたい気がするが、清々しいではないか。

 実際、本当は嫌われているのに、愛されていると勘違いして、ご機嫌で、にこにこしているやつなんて、だいぶ阿呆っぽいが、なんだかおめでたくて、可愛いではないか。

 そういう風に、どんな自分でも「ちょっと阿呆で、おめでたいけれど、憎めない可愛いやつ」と思えれば、何が起こっても恐くない。

 たとえ、お客さんに拒否されたとしても、そんな「可愛い自分」を貫いたと思えば、また、そんな自分を愛おしいと思えれば、そこに付いてくる「事実」や、「結果」なんて、どうでもいいのだ。

 要は、自分をそういう風に「愛おしい、可愛いやつめ」と思えていれば、人生において、万事、何事も、問題なんてないのである。

 ただ、これは、わたしの場合、食事面を気をつけて、きちんと必要な栄養をとって、フィジカルが安定してきたことも大きいと思う。体が健康だと、思考も健康でシンプルなものになってくるのを最近は実感している。

(だから、慢性疲労で、常にどこかしら体調が悪いのに、この現代社会を生きているひとたち・・・本当それだけで、素晴らしいよ。本当にお疲れ様。と思わずにはいられない。)

(参考 ⭐︎ぷろていんドリーム ⭐︎エッグリスペクト

 そんな感じで、「どうせ愛されている前提」で、お客さんと接することで、自分自身の新たな一面や、リラックスしているからこそ見える目の前の相手の感情の機微、すぐネガティブに勝手に妄想を膨らませてしまっていた自分の思考のクセに気がつくことができてきた。

 大丈夫。

我々がそう簡単にひとを嫌わないように、我々は、そう簡単に嫌われない。

 そして、仮に嫌われていたとしても、そんなことに露とも気づかないで、我々が少しの勇気を出して「わたしは愛されているし、どちらにしてもわたしはあなたを愛している」という姿勢でいれば、いつしか相手の態度も軟化して、きっとそのうち良い関係を築けるだろう。

 「愛されているし愛している」の合言葉は、自分を好きになるための、素敵な呪文だなぁなんて、思いながら、今週も楽しく銀座に向かおうと思うわたしであった。

[ どうせ愛されてるし。 ]心の話。2017/08/07 14:25