調子丸に乗って。

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ご機嫌麗しゅう。
オモシロ美人研究家Chacoである。

更新が途絶えてしまってかたじけない。

どうして更新が途絶えてしまったのか。

何を隠そう、

ビビっていたのである!!

諸君が5月の初夏のこの気持ち良い気候をぬくぬくと謳歌している最中、わたしはなんとあろうことか、

ひとりビクついていたのだ!!

このわたしがひとり怯えているともつゆ知らず、やれ、「空が青くて気持ち良い」だの、やれ、「暑くもなく寒くもなくちょうど良い気候だから、このままの気候でいてほしい〜いや〜夏来ないで〜」だの、どの口が言えたものか。

金品持参の上で、3回回ってワンと言ったら、特別に許してやってもよいぞ。
ネコ好きなら、特別に「ワン」のところを、「ニャン」と変えてもよいが、これはあくまでも例外措置だ。
なので、イヌやネコよりも、ゾウが好きだからと言って、「パオ〜ン」ではだめだし、鳥が好きだからと「クルック〜」でもだめだ。

日本における飼育頭数の順位にならい、ここは厳密にいきたいと思う。

話はそれたが、肝心のわたしが何にビビっていたのかという点が諸君も気になっているところであろう。

その問いには、

「ありとあらゆるものに」

とお答えしよう。

そして、ありとあらゆるものが怖くなって逃げたくなり、だめだいかん!と立ち向かってみるも、書けない自分に直面し、そんな自分に愕然とし、さらに恐怖が増してゆく…。このスパイラルに陥ったのだ。

たかが、個人のブログで、である。
誰かにお金をもらっているわけでもないのに、だ。
笑えるだろう。
おおいに笑うがよい。
わたしも笑えるので、

「あまりにおかしくて、へそで茶を沸かすぜ!」

と言ってのけて、寝そべった腹の上に、水を入れたやかんを載せて「あはは!あはは!」と笑ってみるも、腹の上のやかんはいっこうに沸騰せず、周りで体育座りをして見ている連中に、白い目で見られるという針のむしろを味わってみたいほどだ。

そして、その恐怖のスパイラルに陥ったわたしは、自分と向き合い、色々なひとから勇気付けられる言葉をもらい、誰かの話を聞き、誰かのブログを読むことで、ようやく、あるひとつの覚悟にたどり着いた。

それは

調子に乗る。

という覚悟だ。

イメージとしては、「調子丸」という遠洋漁船に乗って、羅針盤も地図もない大航海に出る、という感じだ。

念のためことわっておくが、回転寿司チェーンの「銚子丸」ではないぞ。

回転寿司の回転台に乗っていても、同じところをぐるぐると回るだけである。
膝を抱えて皿の上に座するわたしを、どこぞのイケメンが選んでくれたら良いが、誰にも選ばれずに、時間とともにカピカピに乾燥して、しまいには廃棄されてしまう恐れがある。

誰にも選ばれずに、乾ききって、捨てられる…そんな屈辱を味わうくらいであれば、危険であっても、わたしは「銚子丸」ではなく「調子丸」に乗る人生を選ぼうと思うのだ。

ひとに選ばれるのを待つ人生ではなく、自ら危険を冒して冒険に出て行こうと思う次第である。

どうして「調子にのること」を覚悟したかというと、わたしの抱えていたあらゆる恐怖に打ち勝つためには、「調子にのるしかない」という結論に至ったからである。

ーーー

まずは、「ひとからの評価と、自分のセルフイメージの乖離」に対する恐怖である。

ありがたいことに、変態的なことばっかり言っているブログながらも、諸君のように読んでくださる方がいて、身にあまる言葉で褒めてくださる方がいて、本当に嬉しいと思っている。

しかしながら、せっかく褒めてもらっても「あっしは、だんなにそんな風に言ってもらうほど、たいしたやつではないでげす…へぇ」と、へーこらと腰の低い御用聞きよろしく、自分を低く評価してしまうきらいがあった。

自分で自分を、「ひとの期待に応えられるような器ではない」と思っていて、多くのお褒めの言葉が嬉しいながらも、それを「自分には本当にできるのか」という疑いとともに、マイナスな方向へと働かせてしまっていたのである。

ひとからのプラスの評価を、そのまま受け取れば良いものを、勝手に歪めて受け取り、「褒められて嬉しい」と、自己肯定感を上げながらも、「でも、思ってくれているほどの人間ではない」と、自ら自己肯定感を下げるという、なんとももったいないことをしていた。プラマイゼロどころか、マイナスにしてしまっていたかもしれない。

まずは、このひとからの純粋なプラスの評価を、そのままプラスに受け止めるためには、「調子にのる」他ない、と思ったのだ。

自分で自分を「できない」と思ってしまうことは、ひとびとが「オモシロイ」と褒めてくれるその気持ちを否定し、自分を信じてくれているひとの言葉を信じていないことになるではないか、と。

だったら、最悪、自分を信じることができなくても、わたしやわたしの投稿をいつも見て、応援してくれるひとのことを信じよう、と思ったのだ。そうだ、そう言ってくれるのだから、よくわからないがきっと「オモシロイ」はずだ、と。
そう決めつけてみようと思ったわけだ。

そして二つ目の恐怖は「自分ではよく把握できない未知への恐怖」である。

また、このブログを2月から始めて、3ヶ月が経とうとしているが、少し前から、読者の人数が急増しているのだ。

ありがたい話なのだが、Facebookの友達申請が、ある日を境にとめどなくやって来ており、その対応が追いついていないのである。

なんだかわたしの知らないところで、「ウチの子をどうかよろしくお願いします!」といって、芸能事務所の社長がテレビ局や関係各所に新人を売り込みするように、わたしを不憫に思った誰かが、わたしの知らぬところで、わたしのことを触れ回ってくれているのではないか、と思えるほどだ。

いったいぜんたい何が起こっているのだ、と、素直に「喜び」とすれば良いことを、あろうことかそれを「恐怖」と捉えてしまっていたのだ。

…どうだ、この調子に乗っている感じの文章は。
自分で書いていて、調子丸は意気揚々とインド洋あたりを航行しているのではないかと思えるほどに、調子に乗っている。
うむ。良い調子だ。この調子で、どんどん調子に乗って行こう。そう、調子っ外れなあの思い出の曲を口ずさみながら!

というわけで、このわけのわからないことに対する「恐怖」、そして、多くのひとに読んでもらいたい、と思いながらも、実際に読者のひとが増えることに対する「恐怖」、そして、多くのひとに読んでもらっているのだから、よりクオリティの高いものを作らなければというプレッシャーへの「恐怖」と、どれだけ恐れの多い人間なのかと呆れるほど、あらゆる恐怖におののいていたわけだ。

この未知に対する恐怖についても、「こうなるべくしてなったのだ」と、調子にのって、現実ときちんと向き合うことで、なんとか受け入れていこうと思う次第である。

そして最後は、「自分の文章を書くときの在り方」についての恐怖である。

これは、今までは特に何も考えず、書きたいことを自由に書いていたが、「やはりわけのわからないエッセイよりも、ちゃんと何かしら気づきのある内容にしなきゃいけないよね…」と思い、その意識でもって、戦略的にブログを書いてみるも…、なんと、全然書けなかったのだ。

以前は、家で書こうとしてあまり気分が乗っていない時でも、伝家の宝刀「スタバ」に行けば、なんだかんだ乗ってきて書けていたものが、そのスタバに行っても書けなかったのは、わたしにとって大きな恐怖であった。大げさかもしれないが、もう2度と更新できないのでは、と思ったほどだ。

これで、わたしは気がついた。

わたしは、「こうすれば共感してもらえるのではないか」とか、「こうしたら読者が増えるではないか」という、頭で考えた戦略に基づいて、記事を書くことができない人間なのだ、と。

自分が心で本当に思っていることを、自分が書いていて楽しいと思える状態でなければ、書くことができない人間なのだ、と。

もしあえて悪く表現してみるとすると、「自分本意」な人間なのだ、と。

そして、長らくわたしはこの「自分本意」なやり方と考え方しかできない自分に対して「これで良いのかな」と自信が持てず、もっと戦略を持って、ひとに喜ばれる、ひとの役に立つものを書こうとしなければ、きっと成功できないんだ、と常にそこはかとない焦燥感を抱きながら書いていた。

しかし、今回、スタバであってもブログが書けないという事実に直面して、もう、白旗を揚げることにしたのである。

戦略を持たなければダメだ、と思っていたけれど、戦略に基づいて書こうとすると、そもそも書くことすらできないのだから、その部分は潔く諦めるしかない、と。

もう自分の書きたいように、書くしかない。だってそうじゃないと書けないのだから、そうするしかないじゃん、という諦めの境地に至ったのだ。

もしそれで、「オモシロくない」と言われたり、何も進歩がなかったとしても、もうしょうがないではないか。
そんな風に思ったのだった。

ということで、わたしは「書く」ために、読者は自分以外にいないぐらいの気持ちで書こうと決めたのである。

自分以外の誰かがチラついた瞬間、手が止まり書けなくなるのだったら、たとえ自分本位であっても、「書く」という方を優先したいと思ったのだ。

今までの投稿のように、自分に向けて、自分が楽しんで書いたものを、誰かが結果的に「共感」してくれて、誰かが結果的に「楽しい」と思ってくれることを願うほかない、というわけだ。

このように、自分の文章を書く時の在り方についての恐怖も、「自分の好きなようにやる」、要は「調子にのる」しか方法はないという気づきを得ることができた。

それで、読者が離れていき、本当に読者が自分自身だけになった場合、「調子にのると痛い目に合う」という通念を、きちんと体現できたということで、それはそれでひとつ学びを得られるではないか、と言い聞かせながら。

以上、わたしが最近ブログを書けなかった理由について、長々と書いてきた。

結果的に、「調子にのってみる」ということで、数々の恐怖をひとつづづ解消するに至った。

まぁ、要は、

今までと変わらず、楽しくブログを更新するだけだ!!

ということに回り回って帰着したわけだ。

なので、今後もわけのわからないエッセイや、旅行記など、あまり諸君の興味のわかないものが出てくるかもしれないが、「あぁこいつ調子にのるってひとりで宣言して、まさに調子にのって楽しんでる、というわけだな」ぐらいに思っていただけると幸いである。

そしてそんな調子にのっているわたしは、諸君にも、ぜひ調子にのってもらいたいと思っている。

なぜなら、あなたが調子に乗って、あなたがやりたいことを、好き勝手にやることによって、きっと救われるひとがいるはずだから、だ。

それはあなたが調子にのることで生み出したもので誰かを喜ばせるのかもしれないし、調子にのってやりたいようにやっているあなた自身の姿に勇気づけられるということかもしれない。

「あいつ調子にのってる」と思われる恐怖があるだろう。
でも、自分の力を発揮するために調子に乗って何が悪い、ぐらいの気概で、はねのけてやろうではないか。

調子に乗れないことで萎縮し、自分の可能性に挑戦できないぐらいであれば、おおいに調子にのって、煙たがられながらも、やりたいことをやっていこう。言いたいことを発信していこう

大丈夫。

調子丸の乗組員たちは、みんな調子に乗っているので、調子にのっている仲間を「あいつ調子にのってる」なんて揶揄しないから。

むしろ、「もっと調子にのれよ!」とはっぱをかけてくるだろう。

地球そのものが調子丸となり、宇宙という大海原を航行している…そんな風になったら素敵だろうな、なんて思う。

以上、そんなロマンティックな空想にふけりながら、約5,000文字という長文をだらだら自分の頭の整理に使っているわたしは、もう十分に調子にのっていると言えるのではないか。

なんだか、うまくまとまらないが、もういい。
調子にのっているわたしは、もうこのまま投稿しちゃえ!と思っている。

調子丸。
乗組員、絶賛募集中!!

◉オモシロ美人の今日のコトバ◉
あらゆる恐怖に押しつぶされそうな時は、調子に乗ってみるべし。

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[ 調子丸に乗って。 ]オモシロ美人哲学。2016/05/13 01:34