あることないこと。

phonto-15

こんばんは。
Chacoです。

ここ最近、わたしは俗に言う、「落ち気味」である。
なんとなく元気が出ないのだ。

どれくらい元気がないかというと、今夜もトボトボとなじみのスタバに向かう途中で、いつもは気に留めずにただ通り過ぎるだけの某牛丼チェーンの店が何故か今日は視界に入り、店内でひとりでカウンターに座り、うつむき加減で牛丼を頬張る男性たちを見て、「あぁ、この世界でひとりなのはわたしだけではないんだ…」と涙が出そうになったほど、なんとなく気分が上がらない。

なんならわたしもカウンターに一緒に並び、「土曜夜にひとりなんてやんなっちゃうわね〜」と隣の男性におばちゃん全開で話し掛けては、困惑させつつ、共に牛丼を食してしまおうかと思ったぐらいである。

そこはかとない寂しさや虚しさを感じている今日この頃だ。

特に、明確な理由はない。
自分の将来の先行き不透明さや、これといった恋人がいないのは今に始まったことではないし、それらによって一瞬落ちることはあろうとも、一晩寝ればたいていケロっとしてしまう性格である。

明確な理由はないが、なんとなく、自分の進めたい事柄がなかなかうまく進まないことや、頑張れない自分を人と比較してしまったりして、ないものを数えてはため息をついて、「は!ため息をこぼすと幸せが逃げていく!」と、急いで吐き出した息を吸い込んでみたりして、そんなことをひとりでやっている自分を「馬鹿じゃないの」と揶揄する…こんなことを繰り返している自分に、トータル的に不甲斐なさを感じているように思う。

挙句、部屋をぼーっと歩いていたら、足の小指ではなく中指を角にぶつけ、とてつもなく痛くて、ソファの上で半泣きになりながら、悶絶の苦しみを味わったりした。「小指ではなく中指をぶつけるってどんな距離感覚だ」と、とうとう「自分の体」と「モノ」との間を測る距離感覚にすら嫌気がさすといった具合だ。

何をやってもなーんかだめだ。

まぁこういう時もあるさ、とやり過ごすことにする。

ただ、こういう時には、「自分にないものを嘆くのではなく、自分がすでに持っているものを数え、恵まれていることに感謝せよ」というが、それも最近はなんとなく違うのかな、なんて思う。

もちろん、ないものを数えている限り、気分が上がることはないだろうが、あるものを数えて、「うん、わたしにはたくさんのものがある」ということに気がつき、物理的に恵まれていることを言い聞かせても、それは「ある」という前提条件によって裏付けられた「条件付き」の幸福であるからだ。

まぁ、それも、もちろん、幸福の一種なのだけれど。

おそらく、あるものを数えたら、いや、数える前から、自分が大変恵まれていることはわかる。

ただ、この類の気分の落ち込みは、明確な「不足」から生じるものではなく、時々巡ってくる定期的な「心の新陳代謝」とでも言うのだろうか。何かにつけて、悩みを掘り起こしては、自ら能動的に悩みに行こうとしているのが自分でもわかる。自分が恵まれていることをわかっているのに、感謝するでもなく、途方もなく陰な気持ちに苛まれることに対してすら、罪悪感を覚えたりもするほどだ。

何が、「ある」でも「ない」でもなく、どんな時でも、どんな自分でも、大丈夫だ。と思えるのがわたしの理想である。

そのためには、「過去」でも「未来」でもなく、「今」に集中すること。
そして、「あの人」でも「この人」でもなく、「自分」に集中すること。

幸せは「要素」ではない。
揺るぎない「自分」と、まっすぐに見据える「今」から生成されるもの。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ、それだけ。

そんなことを、思う。

そのためならば、一旦、とことん絶望を味わってみても良い気がする。
そのために、恵まれているはずの自分に対して、「ない」と感じているものを、指折り数えてみてもいいかもしれない。

土曜の夜にひとりでいることに絶望し、牛丼屋の男性たちを見て、泣きそうになってみてもいいのかもしれない。

絶望を味わいつくして、ないものを数えきったあたりで、ようやく、自分に諦めがつき、前を向くしかないというただ唯一の答えが、自分の中にあっさりと湧いてくるまで。

うんうん。今は、まだ落ちきっていないのだ。
底まで落ちたら、しゃがみこんで、思いっきりジャンプをして、今までよりも、少しでも高い景色を見ることができるように、もう少しこのまま絶望してみようと思う。

そういう時だから、なんだかオモシロいことが全然書けていないけれど、そんな自分にやはり絶望しながらも、このまとまりのない駄文を投稿するという、自分への「赦し」を施そうと思う。

・・・・がちょ〜〜〜〜〜ん!!!(ごまかしたつもり)

[ あることないこと。 ]オモシロ美人のよもやま話2016/07/23 22:48