「ありのままで」と言われても。

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ご機嫌麗しゅう。
Chacoである。

わたしは今とても嘆いている。
あることに大いなる嘆きを感じているのだ。

それは「ありのまま症候群」に苦しむ人々の増加について、である。

一昨年、とあるアニメーション映画が大ヒットし、その主題歌も世界中で
爆発的なヒットとなったのだが、その歌ではとにかく「ありのままでいよう」と連呼し
「ありのまま」であることの素晴らしさが歌われているのだ。
最終的には、極寒の吹雪の中でさぞ寒いだろうに「少しも寒くない」などと
強がりな発言をもって歌が終わるのが印象的である。

この歌が一大センセーショナルを巻き起こすと同時に
「ありのまま」である
ことを目指し、こぞって「ありのまま」
な自分になろうとする老若男女が一気に
増加したのだ。

しかし、それと同時に

「自分の『ありのまま』ってなに?」
「自分の素がわからない」

と、「ありのまま」を目指そうとするも
ゴールであるそもそもの「ありのままな自分」

がわからずに、悩み、苦しむ人々が増え続けている。

それをわたしたちは「ありのまま症候群」と呼び、そんな人々を救うために

日夜研究を重ねているわけだ。

報告されている発作症状として、深夜3時にムクっと上半身のみ起き上がり、
「レリゴーーーー!」
と、一発叫んだのち、何事もなかったかのように再度眠りに入るというものがある。
本人に自覚症状はない。
しかしながら身内や集合住宅の近隣などからも苦情が寄せられ
さらに本人は窮地に追い込まれるという辛さを味わわされていうわけだ。

これは何としてでも彼ら彼女らを救い出したい。


ということで今回は「ありのままな自分」ならびに「素の自分」

について掘り下げてみようと思う。

わたしも以前、「素の自分はなんなのか」悩んだ時期がある。
いろいろな場面、相手によって自分がコロコロ変わるからだ。

「なんて八方美人なやつなんだわたしは!…でも…結局は美人なんだね。てへ。」

自分を責めたかと思いきや、おどけるように舌を出し、頭をコツンと叩く

という作業を幾度となく繰り返したきた。

七変化どころではない、様々な自分が様々な場所で現れる。

例えば、馴染みの整骨院だ。
日々の「オモシロ美人」研究によって肩こりと首こり
そして慢性的な頭痛に悩まされる満身創痍なわたしは
週に一回程度で、近所の整骨院に通っている。

仕事の後の疲れ切った状態で、化粧も落ち、青白く佇むその姿は
おそらく「亡霊」のように、スタッフの人たちの目には映っているのだろう。

そんなまるで白装束に身を包み,
現世に未練を残し未だ成仏できていない
「亡霊」のような客人であるわたしには、スタッフのひとも恐れを抱き
あまり話しかけてこない。
わたしはいわゆる「人見知り」の部類に入り
話しかけてこられない限り自ら饒舌に話すことはないので
「無口な亡霊」として、言われるがままに施術を受ける。
まぁ、やたらと饒舌な亡霊もいやであるが。

電気治療や、ウォーターベッド、温熱治療など多種多様な治療が
施されるのであるが、スタッフに促されるがままに亡霊のように足音も立てずに
ベッド間を移動するその姿は、一体スタッフの目に見えているのだろうか。

そして様々な治療を受けていく中で、蒼白だった顔に生気が戻ってくる。
血行がよくなったことにより顔がどんどん赤くなってゆく。
そして最後の施術段階では「ゆでダコ」のように真っ赤になるのだ。
また身体の疲れも幾分すっきりし、人見知りなわたしも空間に少し慣れてきたのもあり
少しはスタッフのひととも会話をし、最終的には「軽度の人見知りなゆでダコ」として
整骨院を去るわけだ。

無口な亡霊が成仏し、タコとして新たに生を受け、それが茹でられまた死を迎える。
そんな輪廻転生が馴染みの整骨院において、毎週小一時間ほどで繰り返されるのである。

加えて、馴染みの美容院。
年下の男性美容師さんに担当してもらっているのだが
彼はわたしがオモシロイ人間であることを見抜いており
わたしの心くすぐるポイントをイジってくるのだ。
わたしは楽しくて楽しくて、整骨院での亡霊なんて
見る影もなく、「大阪の女芸人」のように
隙あらば笑いを取りに行くのである。

また、わたしが
「きちんと自分を持っていますね。」

という褒め言葉を述べると

「自分をもってない美容師に髪切られるのいやでしょ。」

というヘアサロン界を震撼させるような「名言」を放つのだ。

その時ばかりは、
「兄貴〜〜!!ワシャ兄貴に死ぬまでついていきますさかいに〜〜!!」
と、パンチパーマをあて、カラースーツに身を包んだ「チンピラ」な子分になってしまう。

そして、職場において。
接客が主なわたしの仕事であり、普段、テノール歌手ほどのダンディズム溢れる声の低さを
持ち合わせているものの、客人と接する際は、1オクタープ高い声に変貌する。
マライアキャリーもびっくりだ。
そして今までの接客経験を生かし、ホスピタリティ溢れる、優雅(であることを信じてやまない)
な身のこなしで、客人をもてなすわけだ。自分の中では、「ファーストクラス担当の客室乗務員」並に
クオリティーの高い接客要員として、日々自画自賛しているわけである。

ここに挙げただけでも、
「無口な亡霊」
「軽度の人見知りなゆでダコ」
「大阪の女芸人」
「チンピラ」
「ファーストクラスのCA」
と、天と地ほどもあるような様々な自分が現れるのである。

え?これのどれがわたしの「素」かって?
答えは、「すべて」であり、「すべて違う」とお伝えしよう。

ありのまま症候群の皆はそもそも「キャラクター探し」をしているのだ。

「自分はこういうキャラクターである。」

と、唯一無二の、自分の素である「キャラクター」
を追い求めるから苦しいのでる。

人間というのは、人やものとの関係性において
人間たらしめているのであって、相手によって
関係性が変わり、それに伴い自分の反応(キャラクター)
が変化するなんて至極当然のことなのである。

もし、この世界にあなたひとりしか存在しなければ
あなたがケチなのか、優しいのか、辛抱強いのか
背が高いのか、太っているのか、なんてわかりやしない。

人間社会は相対的な関係により維持されているといっても
過言ではないのだ。

言ってしまえば、「ありのまま」もなければ「素の自分」
なんてものも存在しないのである。

例えば、愛する恋人を目の前にして
「そうか。ありのままの自分でなければいけないんだ。」

と意気込んで、自分の心に浮かんだすべてのことを
「我慢は禁物」とばかりに
相手の気持ちを考えずに言いたいことを発言するとしよう。
その中には相手を不快にさせる表現も
多分にあるかもしれない。

あなたは「ふぅ!よし、ありのままな自分でいれた!」という達成感とともに

なんとも言えぬストレスを抱える。
と、同時にそんな「ありのあまま」を試みたあなたに今後も不快にさせられることを恐れて
あなたの愛する人はあなたの目の前を去ってしまうのであった…。完。

「ありのまま」とは意気込んで臨むものではないのである。

それが「ぶりっこ」だって、「嘘つき」だって、
「仏頂面」だって、「八方美人」だって。

ありのままとは、あなたが心地よくいられる状態である。

思ったことを口にし、思ったことを行動することで、
もし、ストレスを感じるようであれば、そんな言動にわざわざ及ぶことはないし
わたしはそれを「ありのまま」とは思わない。

愛する男性の前では、少しでも可愛くいたいと思うのが自然な感情であるし
普段家族の前で見せる開けっぴろげな姿とは到底かけ離れているものになるだろう。

でも、あなたが「可愛く見せようとする自分」が心地よく

何ら苦しさやしんどさを感じなければ、少しの偽りで可愛く見せればよいのだ。

あえてわたしなりに定義するならば
「心地よくいられる自分」が「ありのままの自分」であるとする。

もし、自分の言いたいことが言えず、やりたいことができないことに
ストレスや苦しみ感じているのであれば、心地よくなれる自分を求め
それを実行に移してみればよい。世間で言う「素の自分」になればよい。

でも、そうでなければ、様々な場面で様々なキャラクターを心地よく思える限り

味わえば良いのである。

シンプルに考えれば良い。難しく考えることはない。
一番大事なのは、そう、あなたが心地よく、楽しくいられることなのだから。

来月、「オモシロ美人サミット」とともに巣鴨にて「ありのまま症候群防止会議」
が開催予定となっている。
議長国の日本としては、なんとしても「とげぬき地蔵議定書」に
「ありのまま症候群およびその予備軍排出量の削減目標」として、
「100%」を目標として盛り込もうと各国当局と連携を取り
粛々とその準備が進められている。

これは由々しき問題である。
ひとりひとりの問題として、ぜひ考えて欲しい。

◎おもしろ美人の今日のコトバ◎
「ありのまま」とかつべこべ言わず、常に「心地よい」自分であれ。

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[ 「ありのままで」と言われても。 ]オモシロ美人メソッド2016/02/16 01:56